樋口一葉「蓬生日記一」⑨
きょうは、明治24年10月2日から4日までです。新聞には、野菜がひどく値上がりしたとのニュースもあったようです。一葉の時事評的な記述もみられます。
二日 曇天。今日の新聞に「津田三蔵(さんざう)肺炎症にて空知(そらら)監獄に死す(1)」てふ文あり。暴風雨(あらし)の損害ども多くのせ、「野菜のいたく高値(たかね)に成たり」などもしるせり。「『国会』『朝日』のう内幕(うちまく)(2)」とていたく攻(こう)げきしたる、商売忌敵(いみがたき)かあらぬか、にくしとおもふも我心からなめり。午後より藤田屋参る。金七円計(ばかり)来月返金の約束にて貸す。庭の木石(ぼくせき)などつくろひくるゝ。干物(ひもの)の蚕豆一舛(そらまめひとます)到来せしかば、庭前(にはさき)なると冬瓜(とうぐわ)一ッ送る。薄暮(たそがれ)に成て帰宅す。此夜(このよ)久保木の姉君参る。栗柿少し到来す。ぶどう一房(ひとふさ)送る。国子と共に数詠(かずよみ)(3)をす。国子一首おのれ十首の約束にて詠(よみ)つるに、一題はおのれ一首かつ。次なるはおのれ三首まけぬ。勝負(かちまけ)なしとてやみぬ。此夜は更にねぶからず、十二時ふしぬ。
三日 小石川稽古也。空めづらかに晴て、いとよき日成り。師の君のもとへぶどう少し奉る。来会者十二人計成し。今日より稽古一人に成る。九月分会計の計算をなして帰る。四時頃成し。十二時いねぬ。
(1)津田三蔵(1855-1891)は、西南戦争後、三重県巡査をへて滋賀県巡査となる。明治24年5月11日大津で警護中のロシア皇太子(のちのニコライ2世)にきりつける(大津事件)。裁判で無期徒刑を宣告され、北海道釧路集治監に収容されたが肺炎を起こして死亡した。「空知監獄」とあるのは誤報。
(2)国会新聞と東京朝日新聞は姉妹関係にあり、これら両紙の政府に癒着した内情を暴露した記事。
(3)いくつかの歌題を細かく裂いた紙に書いてひねったものを盆に載せて、一枚一枚開きながら一定時間内に詠み競う。
四日 晴天。午前に読書をなし、午後作文をす(4)。薄暮(たそがれ)より国子と共に摩利支天に参る(5)。帰路(かへりみち)、杉山勧工場(くわんこうば)(6)を見物す。各商家一人の客なく、寂莫たるにも驚きたり。前住(すみ)ける家(7)の前を過てくるに、あやしき待合などいふ家出来たり。中坂(なかざか)(8)の頂き、先の日の大風(おほかぜ)にや崩れけん、一間計石段落たり。家に帰りしは八時頃。夫(それ)より母君の揉療治(もみれうぢ)少しして、習字にかゝる。十二時ふしどにつきぬ。
待合といふものはいかなる物にや、おのれはしらねど、只(ただ)もじの表よりみれば、かり初(そめ)に人を待(まち)あはすのみの事なめりとみるに、あやしう唄女(うたひめ)など呼上(よびあげ)て酒打(うち)のみ、燈(ともしび)あかうこゑひくゝ、夜更(ふく)るまで打興(うちきよう)ずめり。家(いへ)あるじは大方女子(をんな)にて、二人三人(ふたりみたり)のみめよき酌女(しやくをんな)もみゆ。家は艶(えん)にすぎたるはいりのさま、高どのにはいよ簾(すだれ)(9)かけ渡して、すごしの声(こわ)ねこゝろにくし。家名(いへな)は行燈(あんどん)にかきたるもあり、額打(がくうち)たるもあり。「ときは」とよ呼ぶあり、「梅のや」「竹のや」、「湖月」はからす森に名高く、「花月」は新橋の裏町にあり。あるは「いが嵐(らし)」の奥座敷に風をいとひ、「朧(おぼろ)」のはなれに落花の狼藉(らうぜき)(10)をみるなど、大方世の紳士紳商(しんしやう)などいふ人の、かくれ遊びの場所なめり。少なくも一町(ひとまち)に一ヶ所はかならずあり。多き所には軒をならべて、仕出しの岡持(をかもち)常に行かふを見る。世にはいかにあまんのこがねありて、かう用なき人のいとのどかなるよを過すらむ。孟宗(まうそう)は竹をゑかねて雪中にこゞえ、孫公(そんこう)は雪少なうして窓の光りくらきをなげくに(11)、地そ軽減をとなふるの有志家、予算の査定に熱中するの代議士、かゝる遊びに費すのこがねのをしからずとは、不学不識のもののしれがたき事にこそ。
(4)小説の習作をする。
(5)ここでは下谷広小路(現・上野広小路)の大徳寺にある。気力、体力、財力を与え、厄を除き、福を招き、運を開く、とされる。摩利支天は、仏教の守護神である天部の一尊。日本では中世以降信仰を集め、楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を篭めていたといわれるなど、武将たちの信仰も厚かった。
(6)多くの商店が一つの建物に商品を並べて販売した百貨店の前身。
(7)一葉が十代の萩の舎入門当時の家。下谷区上野西黒門町22にあった。
(8)御徒町方面から湯島天神のほうへ上る急な石段。
(9)伊予国(愛媛県)上浮穴(かみうけな)郡露峰(つゆのみね)産の篠竹などで編んだ上等のすだれ。
(10)もともと花が散り乱れる、花を散らし乱すこと。転じて、物の散乱している様子や物を散り乱すたとえに用いるほか、女性や子供に乱暴を働くさまにもいう。
(11)中国、唐代の児童用教科書『蒙求』からの引用。「孫公」は劉宋の官吏、孫康のことで、『蒙求』でその勤勉さが讃えられた。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
二日。曇。今日の新聞に、大津事件の被告津田三蔵が肺炎で北海道空知(そらち)監獄で死亡したとある。台風の被害も多くのせ、野菜がひどく値上がりしたともある。またこの新聞が国会新聞、朝日新聞の両紙の内幕をあばいてひどく攻撃しているのは、商売がたきで、憎く思っているからであろう。午後から藤田屋が来る。七円ばかり来月返金の約束で貸す。台風で傷んだ庭の木や石を直してくれる。乾物の蚕豆(そらまめ)を一升くれたので、お返しに庭の冬瓜を一つあげる。夕暮れに帰って行く。久保木の姉が見えて、柿と栗を少しいただく。お返しはぶどう一房。邦子と和歌の数詠み競争をする。邦子が 一首詠むとき私は十首詠むという約束で詠んだが、一題は私が一首勝ったが、次のは私が三首負けた。結局、勝負なしでやめる。今夜は眠くなくて、十二時になって寝る。
三日。萩の舎の稽古日。空は珍しく晴れてよいお天気。先生にぶどうを少しおあげする。出席は十二名ほど。今日から代稽古は私一人になる。九月分会計の計算をして帰る。 四時頃でした。十二時に寝る。
四日。晴。午前中は読書をし、午後は書きものをする。夕暮れから邦子と摩利支天にお参りする。帰りに杉山物産陳列場を見物する。どの店にもお客は一人もなくひっそりしているのに驚く。もと住んでいたあたりを通ってくると、変な待合などという家が出来ていた。中坂の上のあたりは、先日の台風で崩れたのか一間ほど石段が落ちていた。家に帰ったのは八時頃。母上の按摩を少しして習字にかゝり、十二時、床に入る。
待合とはどんなものか私は知らないが、ただ文字面だけで見ると、一時のまにあわせに人と待ち合わせするだけのものだろうと思われるのに、変に芸者を呼び酒を飲み、あかあかと灯をつけ、ひそひそ声で夜おそくまで遊び興じているようだ。その家の主人というのは大てい女性で、二、三人顔の美しいお酌の女もいる。家は艶っぽい表構えで、部屋には伊予簾を掛け、 涼しげな声など聞こえ情緒が感じられる。家の名前は行燈(あんどん)に書いたのもあれば、 額に書いたのもある。「ときは」、「梅のや」、「竹のや」など。「湖月」は烏森町の有名な待合で、 「花月」 は新橋の裏通りにある。
ある時は「五十嵐」 の奥座敷にひっそりと浮世を避け、またある時は 「朧(おぼろ)」の離れ座敷に落花狼藉の戯れをするなど、世の殿方たちの隠れ遊びの場所であろう。少なくも一つの町に一箇所は必ずある。多い所では軒を並べて続き、料理の配達がしきりに出入りしている。世間にはどうして、大金持ちで暇をもてあます人が、こんなにものどかに暮らしているのだろうか。昔、中国で、孟宗は親のために竹の子を探して雪の中で凍え、孫康は窓の雪が少なく光が暗いのを嘆いて苦しんだというのに。いま、地租税の軽減を主張している有志の方々よ、 国家予算の査定に熱中している代議士の方々よ、このような遊びに使うお金は惜しくないとおっしゃるのでしょうか。学問のない私には分からない事です。
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