樋口一葉「蓬生日記一」②
きょうは明治24年9月18日から。いつもの稽古の日、歌子先生に、新古今集に歌の調(しらべが)が似てきたことを注意されることもあったようです。
十八日 朝来(てうらい)曇天。十一時頃より小雨降(こさめふり)くる。今日はさまざまなすこと多く、あわたゞしければ、仕たてものはせずして机にむかふ。 一日降暮(ふりくら)して、夕暮方より風いと寒く成ぬ。燈火(ともしび)のもとにむかひて、更におもへば、今日もすることなしに暮たる也。「あな口をし(1)」とおもふは日々なるものから、え勉(つと)めもあえぬはいかなるにか、我ながらいとにくし。夜一夜雨降(ふり)にふる。十一時頃ねやには入(いり)ぬ。
十九日 朝は小雨ふる。今日は例の稽古日也。つとめて家をば出づ。師の君朝(あさ)げものし給ふ折成(なり)けり。少しものがたろふほどに、人々参りあつまる。てにはのあやまり(2)などたゞし給ひて、さての給ふ。「君は此頃『新古今』をやみ給ふ(3)。 いたう調(しらべ)の似かよひたるなんある。あしきことにはあらぬものから、まねぶはいとよからぬことぞかし。猶(なほ)歌集をみたまへ。手もとにおはさずは、こゝになん侍る」など、ねんごろに教へ給ふ。あす松園(まつぞの)(4)の月次会(つきなみくわい)なればとて、その兼題(けんだい)を今日の点取(5)にす。「八点以上はしたゝめておくらせばや」とて也。 みの子、夏子、広子、艶子の君達、およびおのれの五人成ければ、色紙に寄合書(よりあひがき)しておくる。家に帰りしは三時過(すぐ)る頃成し。空は余波(なごり)なく晴あがりぬ。此夜もはやうふしどに入ぬ。
(1)残念だ。がっかりする。不本意だ。はがゆい。不満だ。惜しい。情けない。つまらない。感心しない。
(2)てにをは、つまり助詞や助動詞の誤り。
(3)師(中島歌子)の和歌は、新古今を避けて古今集の歌を尊重し、実景、実情への誠実を重んじる「しらべ」の論を説い香川景樹(桂園派)の影響を強く受けていたことがうかがえる。
(4)歌人、加藤安彦(1820 - 1898)の号。尾張犬山藩士で、国学を植松茂岳らに、儒学を角田春策にまなぶ。家集に『松廼のしたたり』。
(5)同じ題で詠まれた歌を十点法で採点し、点数を競う。
廿日 曇天。師君の仕事をす。別してのことなし。中島く良子(らこ)ぬしにはがきを参らす。廿一日 朝来(てうらい)曇天。午後(ひるすぎ)より母君築地(つきぢ)へ寺参りに(6)行(ゆき)給ふ。望月(もちづき)(7)より使ひ来たる。さつま芋(いも)到来す。日没後より雨降出(ふりいで)ぬ。更(ふけ)てはいとゞ風さへそひて、おどろおどろしう、只天(てん)の川の樋口(8)切(きり)たらん様成けり。なすことなしに空しう起居(おきゐ)て、閨(ねや)(9)へ入りしは一時過(すぐ)る頃成し。
(7)父、則義から付き合いのあった人で、豊屋の屋号で八百屋を営んでいたと見られている。
(8)樋の口。水路などで開閉して水位を調節するための戸口。
(9)寝室。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
十八日。朝から曇。十一時頃から小雨降る。今日は色々とする事が多く忙しいので、仕立物はやめて机に向かう。一日中降り暮らしてタ方からは風も出て寒くなる。灯火のもとで静かに思えば、今日も何一つすること無しに暮らしたのでした。あゝ残念だと毎日毎日思いながらも改めることも出来な無いのはどうした訳か、我ながらひどくいやな気持ちです。夜通しはげしく降る。十一時ごろ床に入る。
十九日。朝は小雨。今日は萩の舎の稽古日なので朝早く家を出る。先生は朝のお食事中でした。少しお話をしていると皆さんが見える。私の歌の助詞の誤りなどを直されてから、先生は、
「あなたは近頃新古今を見ていませんか。ひどく調子が似ているのがありますよ。悪いことではないが、ただまねをするのはよくないことです。やはり香川景樹の歌をよく見なさい。お持ちでなかったら、ここにありますよ」 と親切に教えて下さる。
明日は加藤安彦先生のところの月例会なので、 その兼題を今日の点取り題となさる。八点以上は清書して送ろうというのです。八点以上は田中みの子、伊東夏子、鳥尾広子、小笠原艶子さん達と私の五人でしたので、 色紙に寄せ書きして送る。家に帰ったのは三時過ぎでした。空はすっかり晴れる。今夜も早く床に入る。
二十日。 曇。先生の仕立物の仕事をする。特に変わったこともない。中島くら子さんにはがきを出す。
二十一日。朝から曇。午後から母上は築地へ父上の墓詣りに行かれる。望月さんから使いが来る 。薩摩芋を戴く。日が暮れてから雨が降り出す。更けてからますますひどくなり、 風まで出て恐ろしい。天の川の堤防が切れたのではないかと思われる程です。何も手につかす、ただ起きているだけで、床に入ったのは一時過ぎ頃でした。
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