樋口一葉「蓬生日記一」①

 きょうから、一葉の日記のつづき、「蓬生日記一」に入ります。表書年月は「廿四年菊月」、署名は「なつ子」。明治24年の秋、9月15日からはじまります。

日かげにとほきやヘむぐら(1)のあき、いとゞ露のおき所なさに、筆さしぬらしてかひつゞくれば、あやしう(2)人のしりうごとのやうにもなり侍(はべり)しかな(3)

(1)八重葎。幾重にも生い茂っているつる草や雑草のことで、荒れはてた屋敷や庭などのようすを表すのに用いる。
(2)『徒然草』序段の末尾「あやしうこそものぐるほしけれ」(異常なほど狂おしい気持ちになるものだ)によるか。
(3)このブログが拠っている『全集』(小学館)の注には「雑草が幾重にも高く生茂って、ここまでは日ざしが届かなくなった破屋の秋さながらに、世間をひがんで身を立てることもなし得ず、貧乏にさいなまれている日陰の私の悲しみのやりばのなさに。この序文が書かれたのは、日記の書起しよりかなり後と考えられる。」

九月十五日 晴天。九時頃より灸治(きうぢ)に行(ゆく)。五十人計(ばかり)待合(まらあは)して十時頃終る。それより直(ただち)に図書館に趣く。『本朝文粋(ほんてうもんずい)(4)『雨夜(あまよ)のともし火』(5)『五雑俎(ござつそ)』(6) とをかる。馬琴の著書中(7)に「五雑俎」といふこといと多く有しかば、見まほしくてなり。左(さ)はあれども、例の不学故(ふがくゆゑ)中々にえよむべくもあらず、いとせんなし。三時頃館(くわん)を出て、みの子君のもとにゆく。少しものがたりしてかへる。君はおとつひより箱根、鎌倉あたり旅行して、昨日帰らせ給ひぬといふ。「塔(たふ)の沢(さは)にて(8)白(しら)なみの立(たち)さわぎし」てふ物語りも有けり。家にかへりしは五時少し前也(なり)し。此夜は、いとねむたふて、えもたえがたきにわびて、はやう打(うち)ふしぬ。十時成(なり)けん。
(4)平安中期の藤原明衡(あきひら)撰の漢詩文集。14巻。康平年間(1058~1065)の成立と見られている。嵯峨天皇から後一条天皇までの約200年間の漢詩文427編を『文選(もんぜん)』に倣って39類に分けている。
(5)江戸中期の儒学者、湯浅常山(1708 - 1781)の主著『常山紀談』の付録として執筆された武談集。常山は備前岡山藩士で、江戸に出て服部南郭や太宰春台に学び、帰って藩政に参与したが直言が疎まれて退けられ、著述に専念した。
(6)謝肇淛(しゃちょうせい)が著した中国・明末の随筆。16巻。1619年に成立。明代の政治、経済、文化、科学などを、「天」「地」「人」「事」「物」の5類に分けて考証している。
(7)曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』(1814 - 1842年刊)の付記や割注のなかに何カ所か引用されている。
(8)「塔の沢」は、神奈川県箱根町の温泉。早川の渓流沿いにある単純泉。箱根七湯の一つで、中世の開湯ともいわれている。ここでは、盗難に遭ったところの意で用いられている。

十六日 今日もめづらしき好天気也。風もなく雲もなく、さはれ暑からず。つねにかゝらましかばなどおもふ。母君は湯島の紺屋(こうや)がり(9)参り給ふ。おのれは衣(きぬ)どもあまたあらひなどする程に、午前十時といふころ成けん、山下直一(なほかず)君(10)参る。ものがたりすこしする程に、母君もかいられぬ。ゆづりて、おのれは師の君のしたてもの今日よりはじむ。君は、午後の四時頃帰宅せらる。熊ヶ谷(くまがや)(11)より成りとて、小袖綿(こそでわた)(12)もらふ。夜食はやうくひて、そゞろありき国子と共にす。「あすは中秋なるてふを、今宵の空もたゞならず、雲の立さわぐはいかゞ」などおもふもい例(いつも)なるものから、「大方かゝる」となげかれぬ。

(9)当時の本郷区湯島天神町にあった三河屋。「紺屋(こうや)」は、「こんや」の音変化で、染め物を業とする者。「がり」は「かあ(処在)り」の音変化で、…のもとに、の意。
(10)一葉の父、則義の知り合い山下信忠の息子。
(11)明治22年4月1日の町村制施行で発足した埼玉県の熊谷町(現・熊谷市)。山下家の郷里だった。
(12)綿入れの長着や羽織に入れる綿。

十七日 早朝、髪(かみ)むすびて師のきみがり行(ゆく)。今日はみの子ぬしの月次会(つきなみくわい)なれば、かしまいらする硯(すずり)、おのれもてまいらんとて也。十一時半より家を出づ。母君、みの子君の近辺(ちかきほとり)まで送り給はる。談話(ものがたり)少ししてのちに、諸君参らる。今日は中秋なるてふを、空めづらかに晴わたりて塵計(ちりばかり)の雲もなく、風はつよからねどすゞしき程に吹(ふき)て、いとよき日也。点取(てんとり)題(13)「対山待月(たいざんたいげつ)」也。 小出君及(および)師の君、両点也。
    甲(14) 両君
   山のはの梢(こずゑ)あかるく成(なり)にけり
       今か出(いづ)らむ秋のよの月
おのれの成ければ賞給はる。今日の各評、題は「山家水(さんかのみづ)」「枕辺虫(ちんべんのむし)」也。天は小川信子ぬし、地は中村礼子ぬし、人は伊東延子ぬし成けり。日没少し前に諸君帰らる。おのれは、つや子ぬしの迎ひのいとおそければ、一人残し参らせんがわびしければ、もろ共に残る。とよ子君迎へに来給(たまひ)てより、おのれは帰る。みの子ぬしより心ぞへの車にて出る程に、月は上野の森をはなれて、桜木病院(15)の軒(のき)ばにのぼりぬ。「うたて、月をうしろにして帰ることのいとをしさよ」と心の中にはなけかれぬ。切通(きりどほ)し(16)辺(わた)りへ来(きた)る程に、雲少しかゝり初(そめ)ぬ。家に帰りてより少し月さやかに成しが、更(ふけ)てはいとゞ雲かさなりて、「おもひしことよ」とわびられぬ。今宵(こよひ)久保木の姉君参る。母君と共にものへ参らる。今宵も例のなまけてはやうふしぬ。
(13)点数の多寡によって優劣や勝敗を競うこと。歌会では、ふつう兼題や即題で出詠された歌が、点者のところへ集められて十点法や甲乙によって点が入れられ、佳作が選ばれる。
(14)甲乙点の場合のいちばん上位。
明治23年秋に宿題として習作された「山のはの梢ほのかにみゆる哉いま昇るらし秋のよの月」に推敲をくわえて出した歌とみられる。
(15)上野桜木町に24年4月に開設された皮膚病専門の病院。院長は小田耕作。
(16)山や丘を切り開いて通した道路。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。







《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から


日陰に茂る八重むぐらにも秋が訪れ、 その草葉におりる露に筆を濡らして、思いのままに書き続けて行くと、人のかげロばかりのようになって、自分でも何だか情けない思いです。

九月十五日。晴。九時頃からお灸に行く。五十人ほ ど順番を待って十時頃終わる。それからすぐ図書館に行く。本朝文粋(もんずい)、 雨夜のともし火、五雑俎(ざつそ)を借りる。滝沢馬琴の著書の中に五雑俎ということが大変多く出てくるので、見たくなったのです。しかし例によって不勉強なためになかなか読めないのは仕方のないことでした。三時頃に図書館を出て田中みの子さんのお宅を訪ねる。少しおしゃべりをして帰る。彼女は一昨日から箱根鎌倉に旅行して昨日帰られたと言う。塔の沢では泥棒事件があったという話もされた。家に帰ったのは五時少し前。今夜はひどく眠くてどうにもならないので、情けないが、早く床に入る。十時。

十六日。今日も珍しいほどのよい天気。風もなく雲もなく、かといって暑くもない。いつもこんな天気だったら、などと思ったりする。母上は湯島の染物屋に行かれる。沢山たまった洗濯をしていると、 十時頃でしたか、山下直一君が見える。しばらく話をしていると母上も戻られ、あとは母上にまかせて、私は歌子先生の仕立物を今日から始める。直一君は午後四時頃帰って行かれた。直一君の郷里の熊ヶ谷から送ってきたものだといって小袖錦をいただく。夕食を早くすませて邦子と散歩に出る。明日は中秋の名月だというのに、今夜の空模様も少し怪しく、雲の動きを見ては明日が案じられる。このような心配はいつもするのですが、やはり心配なものです。

十七日。朝早く髪を結って歌子先生のところへ行く。今日は 田中みの子さんの梅の舎の月例会なので、萩の舎からお貸しする硯を私が持って行くためです。十一時半から家を出る。母上がみの子さんの家の近くまで送って下さる。しばらく話しているうちに皆さんもお見えになる。今日は中秋にあたるので天気が気にかかっていたのですが、珍しく晴れ渡って少しの雲も無く、風は強くもなく涼しく吹いて本当によい日でした。歌会は点取り方式で、題は「対山待月」、小出粲先生と歌子先生のお二人が点者。両先生から甲を載いた歌は、 

  山の端の梢あかるくなりにけり今か出づらむ秋の夜の月

私の歌でしたので賞を載く。また互選の題は「山家水」「枕辺虫」で、天は小川信子さん、地は中村礼子さん、人は伊東延子さんでした。日暮れ少し前に皆さんは帰られる。私は、小笠原艶子さんのお迎えがおそいので一人だけ残すのも気の毒で、一緒に残る。お迎えのとよ子さんが見えてから私は帰る。田中みの子さんの心づけの車でお家を出る頃には、月は上野の森を離れて桜木病院の軒端に昇っていました。残念なことだ、名月を後に残して帰るのは口惜しいことだと心の中で嘆いたことでした。湯島の切通し坂あたりへ来た頃、雲がかかり始めました。家に着いた頃は少し明るくなったが、夜更けにはますます雲がかかって、心配した通りになったので情けない思いでした。夜、久保木の姉が見える。母上と一緒に出かけられる。 今夜も例によって怠けて早く寝る。

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