樋口一葉「この子」⑦
生まれたこの子をなかだちにして「私」と夫の心はとけあうことができました。この子は守り神のようにありがたい存在だと思えてきます。
この坊の生れて来ようと言ふ時分、まだ私は雲霧《くもきり》につゝまれぬいて(4)ゐたのです。生れてから後《のち》も容易には晴れさうにもしなかつたのです。だけれども可愛《かわい》い、いとしい、といふ事は産声《うぶごゑ》をあげた時から何故《なにゆゑ》となく身にしみて、いろいろ負け惜しみも言ひませうけれど、素《そ》つくり誰《た》れかゞ持つて行くとでもなつたら、私は剛情《がうじよう》(5)を捨てゝ取《とり》ついて、この子は誰《た》れにも指もさゝせぬ(6)、これは私の物と抱きしめたでござりませう。(4)眼前をおおい、胸中をふさぎ、知識や判断を迷わせるもののたとえ。自分のことも周囲のこともまるでわかっていなかった。
(6)この小説の主題とみられる、母性に気づくことによって救われる女性が描かれていく。
旦那さまの思ひも、私の思ひも同じであるといふ事は、此子《これ》が抑《そもそ》も教へてくれたので、私が此子《これ》をば抱きしめて、『坊は父様《とうさま》の物じやあない、お前は母様《かあさま》一人のだよ。母さまが何処《どこ》へ行くにしろ、坊は必らず置いては行かない。私の物だ、私のだ』とて頬《ほう》を吸ひますと、何《なん》とも言はれぬ解けるやうな笑顔をして、莞爾莞爾《にこにこ》(7)とします様子の可愛《かわゆ》い事、とてもとても旦那様の様《やう》な邪慳《じやけん》の方《かた》のお子ではない、これは私一人の物だとかう極《き》めてゐまするに、旦那さまが他処《よそ》からでもお帰りになつて、不愉快さうなお顔つきで此子《これ》の枕《まくら》もとへお据《すわ》り遊《あそば》して、覚束《おぼつか》ない手つきに風車《かざぐるま》を立てゝ見せたり、振りつゞみ(8)などを振つてお見せなされ、『一家《いつか》のうちに我《わし》を慰めるは坊主《ぼうず》一人だぞ』と、あの色の黒いお顔をお摺《す》り寄せ遊ばすと、泣くかしら恐ろしがるかしらと見てゐますに、いかにも嬉《うれ》しい顔をして莞爾莞爾《にこにこ》と私に見せた通りの笑みを見せるではございませぬか。或時《あるとき》旦那さまは、髯《ひげ》をひねつて『お前もこの子が可愛《かわゆ》いか』と仰しやいました。『当然《あたりまへ》でございます』とて、つんと致してをりますと、『それではお前も可愛《かわい》いな』と例《いつも》に似ぬ滑稽《おどけ》を仰しやつて、高声《たかごゑ》の大笑ひを遊ばしたそのお顔、此子《これ》が面《おも》ざしに争はれないほど似た処《ところ》がございました、私は此子《これ》が可愛《かわい》いのですもの、どうして旦那様を憎くみ通せませう。私がよくすれば旦那さまもよくして下さります。たとへには三ツ子《みつご》に浅瀬《あさせ》(9)と言ひますけれど、私の身の一生を教へたのは、まだ物を言はない赤ん坊でした」。
このぼうやの産まれてこようというとき、あたしはまだ霧につつまれぬいていたんです、霧は、産まれてからあとも容易には晴れそうにもなかったんです、けれども、かわいい、いとしいということは、産声をあげたときからなんとなく身にしみて、あたしだっていろいろ負け惜しみもいいますけれど、だれかがそっくりこの子を持っていくとでもなったら、あたしは剛情をきっぱりすててこの子にとりすがって、この子はだれにも指いっぽんさわらせない、 これはあたしのものだと抱きしめたでしょう。
主人の思いも、あたしの思いも、同じであるということは、この子がそもそも教えてくれたのでした、あたしがこの子を抱きしめて、ぼうやはパパのものじゃない、ママ一人のものよ、ママがどこへいくにしろ、ぼうやをおいていったりぜったいにしない、ぼうやはママのものよといってほっぺにキスをしますと、なんともいえない、とろけるような笑顔をして、 ニコニコするようすのかわいいこと、とてもとても主人のようなじゃけんな人の子どもじゃない、これはあたし一人のものだときめていますと、主人が外から帰ってきて、あの不愉快そうな顔つきでこの子の枕もとへすわって、おぼつかない手つきで風車をたててみせたり、ガラガラをふってみせたりしながら、ふと、いうんです、うちの中でおれをなぐさめてくれるのはぼうや一人だと、そうしてあの髭もじゃの顔をすりよせるから、泣くかしら、こわがるかしらと見ていますと、この子は、いかにもうれしそうな顔をして、ニコニコと、あたしに見せたとおりの笑い顔を見せるじゃありませんか、あるとき主人は髭をひねりながら、おまえもこの子がかわいいのかといいました、あたりまえですとつんとしていますと、そういうおまえもかわいいじゃないかと、いつにもなくおどけたことをいって、大きな声でたからかに笑った、その顔が、この子のおもざしに、血はあらそえないと思うほど似たところかありました、あたしはこの子がかわいいんですもの、どうして主人を憎みとおせるでしょう、あたしがよくすれば主人もよくしてくれます、三つ子に浅瀬(あさせ)というたとえがありますが、あたしの身の一生を教えたのは、まだものをいわない赤ん坊でした。
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