樋口一葉「この子」⑥
柔和だった夫もしだいに粗暴になり、「私」もますますヒステリックになって、家の中は荒廃しましたが、さいわい離縁沙汰に至ることはありませんでした。そんな時「この子」が生まれたのでした。
あの頃《ころ》旦那さまが離縁をやると一《ひ》ト言《こと》仰やつたが最期《さいご》、私は屹度《きつと》何事の思慮もなく暇《いとま》を頂いて、自分の身の不都合は棚《たな》へ上げて、こんな不運な、情《なさけ》ない、口惜《くちを》しい身と天が極《き》めてお置きなさるなら、どうでもよろしい、何《なん》となり遊《あそば》しませ、私は私の考へ通りな事して、悪ければ悪くなれ、万一好《よ》ければそれこそ儲《もう》け物といふやうな無茶苦茶《むちやくちや》の道理を付けて、今頃《いまごろ》私は何になつてゐましたか、思へば身ぶるひが出ます。よく旦那様は思ひ切つた離縁沙汰《りえんざた》を遊ばさずに、ようも私を取止《とりと》めて置いて下さつた。それは御疳癪《おかんしやく》の募《つの》つて生《なま》やさしい離縁などをお出しなさるより、何時《いつ》までも檻《おり》の中へ置いて苦るしませてやらうといふお考へであつたか、其処《そこ》は解《わか》らぬなれども、今では私は何事の恨みもない、旦那さまへ対して何事の恨みもない、あのやうに苦しませて下さつた故《ゆゑ》、今日の楽しみが楽しいので、私がいくらか物の解るやうになつたも、ああいふ中を経《へ》た故《ゆゑ》であらう。それを思ふと私の為《ため》に仇敵《あだ》といふ人は一人もなくて、あの麁忽《そゝくさ》(1)と小間《こま》しやくれて(2)世間へ私の身のあらを吹聴《ふいてう》して歩いたといふ小間づかひの早《はや》も、口返答《くちへんたふ》ばかりして役たゝずであつた御飯たきの勝《かつ》も、皆《みん》な私の恩人といふてよい。今このやうに好《い》い女中ばかり集まつて、此方《こち》の奥様位人《ひと》づかひのいい方《かた》はないと、嘘《うそ》にも喜んだ口を聞かれるは、あの人達の不奉公《ふほうこう》を私の心の反射だと悟つたからの事、世間に当てもなく人を苦しめる悪党もなければ、神様だとて徹頭《つむりのさき》から徹尾《あしのさき》まで(3)悪るい事のない人に、歎きを見せると言ふ事は遊ばすまい。なぜならば、私のやうに身の廻りは悉《ことごと》く心得ちがひばかりで出来上《できあが》つて、一つとして取柄《とりゑ》のない困り者でも、心として犯した罪がないほどに、これこの様《やう》な可愛《かあい》らしい美くしい、この坊《ぼう》やをたしかに授けて下さつたのですもの。
(1)「麁」は、「そ」と読んで、あらいこと。雑なこと。大まかなこと。「麁(粗)忽」はふつう「そこつ」と読んで、軽率で不注意なこと、そそっかしいことをいいますが、ここでは「そそくさ」と読ませて、一葉は、語り口調を意識的に生かそうと努めていることが伺えます。
(2)子どもが、おとなびたこざかしい言動をする、ませた様子をすること。
(3)徹頭から徹尾まで、すなわち徹頭徹尾(最初から最後まで、あくまでも、終始、の意)を「つむりのさきからあしのさきまで」と読ませたのも、語り口調を生かそうとしたためか。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から
あのころ主人が離婚するとひとこといったら最後、あたしはきっと何の考えもなしに同意して、自分のわるいのは棚にあげて、あたしの人生を、こんなふうに、不運な、なさけない、ロ惜しいものと、天の神さまがきめたのなら、もうどうでもいい、何なりとしてください、あたしはあたしのすきに行動してやる、運がもっと悪くなるもんなら悪くなればいいんだわ、万一よくなればそれこそもうけものというようなめちゃくちゃな論理でもって、そしたらいまごろあたしはどんなふうになっていましたか、思えば身震いがします、よく主人は思い切った離婚沙汰にもちこまないで、あたしのことをそのままにしておいてくれたと思います、それはもしかしたら、主人があたしのことを憎むあまりに、生やさしい離婚なんかするよりは、いつまでも檻の中において苦しませてやれという考えだったのかもしれません、そのへんはよくわかりません、でも、今ではあたしはなにごとの恨みもない、主人にたいしてなにごとのうらみもない、あのように苦しませてもらったから、今日の楽しみが楽しいので、あたしがいくらかもののわかるようになったのも、ああいう経験をしたからでしょう、それを思うと、あたしには敵というのは一人もなくて、あのそそくさとしてこまっしゃくれて世間へあたしのあらを吹聴してあるいた小間使いのハヤも、ロ答えばかりして役たたずだったご飯炊きのカツも、みんなあたしの恩人といっていいんです、今こんなにいい女中ばかり集まって、ここの奥様くらい人づかいのいい方はないと、嘘だっていいからいい評判をたてられるのは、あの人たちの不奉公をあたしの心の反射だとさとったからのこと、世間には、あてもなく人を苦しめる悪党もなければ、神さまだって、頭のさきから足のさきまで悪いことなんかしてない人をまさか不幸な目にあわせることなんかしないと思うんです、なぜならばあたしみたいに、なにもかもまちがった考えでこりかたまってしまって、なにひとつとりえがなくっても、ほんとうにわるい心で犯した罪がないからこそ、ほら、こんなかわいらしい、美しいこのぼうやを、たしかにさずけてくださったんです。
コメント
コメントを投稿