樋口一葉「この子」④

「私」と「夫」との仲は決定的なものとなり、やさしい言葉もかけず、世話もせず、客すらろくに接待をしないような間柄になってしまいました。

絶頂《ぜつてう》に仲の悪るかつた時は、二人ともに背《そむ》き背きで、外へいらつしやるに何処《どこ》へと問ふた事もなければ、行先をいひ置かれる事もない。お留守《るす》に他処《よそ》からお使ひが来れば、どんな大至急《だいしきふ》要用(1)でも封といふを切つた事はなく、妻と言《いひ》じよう木偶《でく》の坊(2)がお留守居《るすゐ》をしてゐるやうに、受取一通で追払つて、それは冷淡に投げて置《おい》たものなれば、旦那さまの御立腹は言はでもの事、はじめは小言《こごと》を仰しやつたり、意見を遊ばしたり、諭《さと》したり、慰めたり遊《あそば》したのなれど、いかにも私の剛情《ごうじやう》の根が深く、隠しだてを遊すといふを楯《たて》に取つて、少(ち)つとや些(そ)つとの優しい言葉ぐらゐでは動きさうにもなく執拗《すね》ぬきしほどに、旦那さま呆《あき》れて手をば引き給ふ。まだ家内《うちうち》に言葉あらそひのあるうちは好(よ)きなれども、物言はず睨《にら》め合ふやうになりては、屋根あり、天井あり、壁のあると言ふばかり、野宿《のじゆく》の露の哀れさに増(まさ)つて(3)、それは冷たい情《なさけ》ない、こぼれる涙の氷らぬが不思議でござります。

(1)公務に関する至急便。
(2)人形、操りの人形。あるいは、役に立たない者、役立たずの者をののしっていう。
(3)荒涼とした冷たい家庭の雰囲気が、以下、和歌的な修辞を用いて語られていく。

思へば人は自分勝手《じぶんかつて》な物で、よい時には何事の思ひ出しもありませぬけれど、苦るしいの、厭《い》やのと言ふ時に限つて、以前あつた事か、これから迎へる事についてか、大層《たいそう》よさゝうな、立派さうな、結構らしい、事ばかり思ひます。さういふ事を思ふにつけて、現在の有《あり》さまが厭やで厭やで、どうかしてこの中をのがれたい、この絆《きづな》を断ちたい、此処《こゝ》さへ放れて行つたならばどんな美くしく好《よ》い処《ところ》へ出られるかと、かういふ事を是非とも考へます。でございますから、私《わたくし》も矢張《やつぱり》その通りの夢にうかれて、こんな不運で終るべきが天縁《てんえん》ではない、此家《ここ》へ嫁入りせぬ以前、まだ小室《こむろ》の養女の実子《じつこ》であつた時に、いろいろの人が世話をしてくれて、種々《いろいろ》の口々《くちぐち》を申込んでくれた、中には海軍の(4)潮田《うしほだ》といふ立派な方もあつたし、医学士の(5)細井《ほそい》といふ色白《いろじろ》の人にも極《き》まりかゝつたに、引違《ひきちが》へて旦那様のやうな無口《むくち》さまへ嫁入つて来たは、どうかいふ一時《いちじ》の間違ひでもあらう。この間違ひをこのまゝに通して、甲斐《かひ》のない一生を送るは真実情《なさけ》ない事と考へられ、我が身の心をため直《なを》さう(6)とはしないで、人ごとばかり恨めしく思はれました。

(4)
明治3(1870)年に陸海軍が分離され、明治5年に海軍省が東京築地に設置された。初期には川村純義と勝海舟が指導した。明治9年に海軍兵学校、明治26年には軍令部が設置。海軍大臣の西郷従道や山本権兵衛らが海軍増強を主張し艦隊の整備や組織改革が行われ、日清戦争時には軍艦31隻に水雷艇24隻を保有する規模となった。このように、当時、海軍は着々と力を蓄え、海軍軍人は近代日本を支えるエリートだった。
(5)明治10(1877)年、東京医学校と東京開成学校が連合して旧・東京大学が開学すると、法学士、理学士、文学士、製薬士とともに医学士の学位が定められた。明治12年に東京大学医学部を卒業した神内由己、佐々木政吉、高階経本ら18名が日本最初の医学士となった。明治6年11月東京医学校に入学した森鷗外も、明治14年7月に満19歳で卒業している。明治20年には、帝国大学令が発令され、医学士号も学位ではなく称号となった。海軍軍人同様、医学士も近代日本を代表するエリートだった。
(6)本来の正しい状態に曲げる。曲がったり悪くなったりしたものを、本来の正しい状態になおす、矯正すること。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。






《現代語訳例》
『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から

ものすごく仲のわるかったときは、二人ともほんとにちぐはぐで、主人が外に行くときにも、あたしが行き先をきいたこともなければ、主人が行き先をいいおいていくこともない、留守中によそからおつかいがきても、どんな急用でも封を切ったことがなく、受け取りのハンコいっこで追い払って、ただぽーんとほうりなげておいたものですから、まるで妻とは名ばかりのデクノボーがお留守番をしているよう、主人はもちろんとてもおこって、はじめは小言をいったり、さとしたりしてましたけど、あたしがあんまりがんこで、主人の隠しだてするというのをたてにとって、ちょっとやそっとの優しいことばなんかじゃ動きそうにないくらいスネぬいていたので、主人はあきれて、とうとうあきらめてしまって、まだ家庭の中でいいあらそいをしてるうちはいいんですが、ものもいわずににらみあうようになっては、もう、家庭というものが、屋根があって、天井があって、壁があるというばかり、野宿してるような感じ、朝に起きるたびに夜露にぬれそぼってるような気さえして、つめたくて、なさけなくて、こばれた涙が凍らなかったのがふしぎなほどです。

思えば人は自分勝手なもので、いいときには何も思い出したりしませんけれど、苦しかったりつらかったりというときにかぎって、以前あったことか、これからのことについてか、すてきな、はなやかな、楽しいことばかり夢みたいに考えて、そういうことを考えれば考えるほど、現在の状態がいやで、いやで、たまらない、どうにかしてここからのがれたい、このきずなを断ち切りたい、ここからとき放たれさえしたら、どんな美しいいいところへ出られるかと、そういうことをつい考えます、あたしも考えました、夢みたいに、夢にうかれて、 こんな不運でおわるのがあたしの運命のはずがない、ここへ嫁入りする前、まだ小室の養女の実子だったときに、いろんな人が世話をしてくれて、いろんな結婚話をもちこんでくれたことなんかも思い出されて、中には海軍の潮田さんというりっぱな方もいたし、一時はお医者さまの細井さんというハンサムな方にきまりかかったのに、どういうわけか主人のようなダンマリやさんと結婚しちゃったのは、これはきっと一時のまちがいにちがいない、こんなまちがいをこのままにして、意味のない一生を送るなんて、ほんとうに情けないと思えてきて、あたし自身の考え方を直そうとはしないで、人のことばかり恨めしく思えるんです。

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