樋口一葉「この子」①

きょうから「この子」という小説です。初出は『日本乃家庭』(明治29・1)。子どもによって夫婦仲に加えて自分の行いもよくなったと語る若い母親の気持を率直に表したタイトルになっている。

「口に出して私が我が子が可愛《かわい》いといふ事を申したら、さぞみな様は大笑ひを遊ばしませう、それは何方《どなた》だからとて、我が子の憎くいはありませぬもの、取《とり》たてゝ何もかう、自分ばかり美事《みごと》な宝(1)を持つてゐるやうに、誇り顏に申すことの可笑《おか》しいをお笑ひになりましやう。だから私は口に出してそんな仰山《ぎやうさん》らしい事は言ひませぬけれど、心のうちではほんにほんに可愛いの憎いのではありませぬ、手を合せて拜まぬばかり辱《かたじ》けない(2)と思ふてをりまする(3)

(1)子宝。『万葉集』に「銀(しろがね)も金(こがね)も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも」(山上憶良)。『平家物語』「子に過ぎたる宝なしとて、泪(なみだ)をながし袖をしぼらぬはなかりけり」とある。
(2)こうした感謝の思いを語ることが、この小説のストーリーになっている。
(3)「まらする」「まいする」から「ます」に変化する中間の形で、現代では仮定形の「ますれ」とともに、改まった文語的ないい方として、終止形・連体形に用いられることがある。上流家庭の奥さまが使うようなこうした言いかたが、この小説全体で貫かれている。

私のこの子は言はゞ私の為の守り神で、こんな可愛い笑顏をして、無心な遊《あそび》をしてゐますけれど、この無心の笑顏が私に教へてくれました事の大層《たいそう》なは、残りなく口には言ひ尽くされませぬ、学校で読みました書物、教師から言ひ聞かしてくれました種々《さまざま》の事は、それはたしかに私の身の為《ため》にもなり、事ある毎《ごと》に思ひ出しては、ああであつた、こうであつたと一々顧《かへりみ》られまするけれど、この子の笑顏のやうに直接《ぢか》に、眼前《まのあたり》、かけ出す足を止《とゞ》めたり、狂ふ心を静めたはありませぬ。この子が何の気もなく小豆枕《あづきまくら》(4)をして、両手を肩のそばへ投出して寢入つてゐる時のその顏といふものは、大学者さまが頭《つむり》の上から大声で異見《いけん》(5)をして下さるとは違ふて、心《しん》から底から沸き出すほどの涙がこぼれて、いかに剛情《ごうじやう》我慢(6)の私でも、子供なんぞ少《ちつ》とも可愛《かわゆ》くはありませんと、威張《ゐば》つた事は言はれませんかつた。

(4)小豆を袋に入れて作った枕。疱瘡(ほうそう)を治すのに効果があるなどといわれ、明治以降、家庭に普及した。
(5)意見
(6)強情我慢。「強情」は頑固、「我慢」は好き勝手に振る舞う。意地っぱりで、他人の意見を絶対に受け入れないことをいう。


昨年のくれ、押《おし》つまつてから産声《うぶごゑ》をあげて、はじめてこの赤い顏を見せてくれました時、私はまだその時分、宇宙に迷ふやうな心持でゐたものですから、今おもふと情《なさけ》ないのではありますけれど、あゝ何故《なぜ》丈夫で産れてくれたらう、お前さへ死《なく》なつてくれたなら私は肥立(7)次第《ひだちしだい》実家へ帰つてしまふのに、こんな旦那《だんな》さまのお傍《そば》何かに一時《いつとき》もゐやあしない(8)のに、なぜまあ丈夫でうまれてくれたらう。厭《いや》だ、厭だ。どうしてもこの縁につながれて、これからの永世《ながらく》(9)を光りもない中《うち》に暮すのかしら。厭《い》やな事の、情《なさけ》ない身とこのやうな事を思ふて、人はお目出《めで》たうと言ふてくれても、私は少しも嬉《うれ》しいとは思はず、唯唯《たゞたゞ》自分の身の次第に詰《つま》らなくなるをばかり悲しい事に思ひました。

(7)病気や産後の体調などが、日をおって回復すること。いまでは通常、産後の肥立ち、という。
(8)荒っぽい言いかたで、勝気な主人公の性格があらわれている。
(9)長らく。長い間、久しく。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。






《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房新社、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から


口に出してあたしが、わが子がかわいいなんていったら、きっと大笑いされますね、ええ、だれだって、わが子が憎いなんてことはありません、とりたてて何もこう、自分ばかりみごとな実を持ってるように、とくいになっていうなんておかしいかしら、おかしいかもね、だからあたしはロに出して、そんなおおげさなことはいいません、でも心の中ではほんとうにほんとうに、かわいいとかにくたらしいとか、そんなものじゃないんです、手をあわせておがまんばかりに、ありがたいと思っているんです。

あたしのこの子は、いわば、あたしの守り神で、こんなかわいい笑顔をして、無心にあそんでますけれど、この無心の笑顔があたしに教えてくれたことの大きさといったら、ロで残らずいいつくすことができません、学校で読んだ本や、先生から教わったさまざまなことも、それは、たしかにタメになったし、ことあるごとに思い出して、ああだった、こうだったといちいちふりかえってみることができますけれど、この子の笑顔のように、直接に、まのあたりに、駆け出す足をとめたり、狂う心をしずめたりしてくれたものはありません、この子 小豆枕をして、両手を肩のそばに投げだして、ねいっているときのその顔というものは、えらい学者が頭の上から大声でむずかしいことを教えてくれるのとはちがって、心の底のほんとに底から、わきだすように涙がこぼれて、いくら剛情で我の強いあたしでも、子どもなんてちっともかわいくありませんと、強がりはいえませんでした。

昨年の暮れ、おしつまってから産声をあげて、はじめてこの赤い顔を見せてくれたとき、あたしはまだそのころ、字宙に迷ってるような気持ちでいたものですから、今思うと情けないのですが、ああなぜ丈夫で産まれてくれたんだろう、この子さえ死んでくれれば、あたしは産後すぐにでも実家へ帰ってしまうのに、こんな主人のそばなんかにいっときもいやしないのに、なぜまあ丈夫で産まれてくれたんだろう、いやだ、いやだ、どうしてもこの縁につながれて、これから長い人生を光もない中に暮らしていくのかしら、いやな日常、情けない人生、とこのようなことを思って、人はおめでとうといってくれるのに、あたしは少しもうれしいとは思わず、ただ、ただ、生きてるっていうことがしだいにつまらなくなっていく、それだけが悲しくてたまらなかったのです。

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