一葉日記「わか草」⑤

きょうは、明治24年8月8日の後半部分と、9日、10日の日記です。

床机(しやうぎ)(1)といふもの表へならべて、あらひたる浴衣(ゆかた)ののりこわげなるをきて、団扇(うちは)もてむねのあたりあふぎゐるは、今行水(ぎやうずい)はてたるなるべし。十計(とをばかり)の女の子が、しろいもの所まだらにつけて、三つ計の子の汗(あせ)ぼなど出来たるにや、かしら計いとしろくしたるを、せをひありくもをかし。片町(2)といふ所の八百屋に新芋(しんいも)のあかきがみえしかば、土産(みやげ)にせんとて少しかふ。道をいそげば、しとゞ汗に成て、目にも口にもながれいるを、はんけちもてをしぬぐひぬぐひして、はては少しいたくさへ成ぬ。日は薄ぐらく成たれど、人のみるらんわづらはしくて、傘はなほかざしたり。
(1)脚を打ち違いに組んで尻の当たる部分に革や布を張った折り畳みの腰掛け。陣中、狩り場、儀式などで用いられた。
(2)本郷区根津片町(現在の文京区根津2丁目)。明治5(1872)年に谷中片町(現台東区)の飛地と周辺の武家地を合せて成立。商店が集まり、弥生町の坂下の遊郭にも近く賑わった。

空橋(からはし)(3)のした過(すぐ)る程、若き男の、書生などにやあらん、打むれて、をばしまに依(より)かゝりてみおろし居たるが、何事にかあらんひそやかにいひて、笑ひなどす。しらずがほして猶(なほ)いそぎにいそげば、ひとしく手を打ならして、ばうざくにも(4)、「こちむき給へ」などいふ。何の心にていふにや、書(ふみ)のかたはしをもよむ人のしわざかとおもへば、あやしくも成ぬ。家に帰れば、母君は外に出て待(まち)給へり。妹はタげのもうけ(5)いそがわしくし居たり。「只今(ただいま)まかり帰りぬ」などいふはしに、「いざ帯とけよ、衣(ころも)ぬげよ。あつかりし成(なる)べし。つかれつらめ。湯もわきてあればあびてこよ」と、残る方なくの給はするに、かたじけなくも、うれしくも覚えて、汗の麻衣(あさぎぬ)(6)ぬぎ捨(すて)て、ゆあみて上(あが)れば、あらひ衣(ぎぬ)の白きを出して、「留守のまにこれあらひて置きぬ。着かへよ」との給ふ。妹は、「姉君み給へ。君が好ませ給ふものにておき侍り。さつまゐりもこしらへ置(おき)ぬ。タげ、いざ」とてすゝめらるゝに、すきたるはらの長き道を廻(まはり)きぬれば、いとゞしく、うゑたるには、いづれも美味ならぬはなくて、打くつろぎてたふべ終りぬ。

(3)もとは、明治13(1880)年に架けられた、西片町と森川町を結ぶ木橋(清水橋)。当初は清水が流れていたが、次第に道の端に狭い流れが残るだけになり、から橋(空橋)ともよばれた。
(4)ばうぞくにも。無作法にも。下品にも。
(5)準備。用意。
(6)麻布で作った粗末な着物。

九日 江崎牧子君へ返事を出す。甲府伊庭氏(7)幷(ならび)に北川秀子(8)君へ、はがきを出す。国の帯を一本し仕立(したつ)。 昼後(ひるすぎ)、植木屋用聞(ようきき)に参る。依(よつ)て建仁寺垣結(9)(ゆふ)べき様(やう)申し付(つく)。「明日より参るべく」とてかへる。洋傘(かうもり)二本張換(はりか)へさす。 一ツは甲斐絹二重張(かひきふたへばり)(10)、一ツは毛繻子(けじゆす)(11)の平常持(ふだんもち)也。双方にて壱円十銭といふ。
十日 早朝より植木屋参る。
(7)甲府市に住んでいた伊庭隆次のこと。樋口家の知人で、甲府郵便電信局の局員をしていた。
(8)一葉の妹、邦子の友人で、雑貨商北川藤兵衛の娘。
(9)四つ割竹を垂直にして、皮を外側にしてすきまなく並べた竹垣の一つ。竹の押し縁を水平に取り付けて、しゅろ縄で結んだもの。京都の建仁寺で初めて用いたとされる。
(10)近世初めオランダ人によって、東南アジアより渡来した先練りの絹織物の一つ。寛文年間(1661~73)に甲斐(山梨県)の郡内の織工が模織し、ふとん地などに用いられるようになった。の字は、明治の殖産興業に伴い、明治30年ごろから「甲斐絹」と呼ばれるようになった。経緯(たてよこ)ともに染色した絹練り糸を使うが、緯糸は2倍くらいの太さのものが使用され、経糸を濡れた状態のままで整経するなどして独特の地合いが生まれる。布面は羽二重より滑らかで滑りがよく、光沢がある。帯や風呂敷、座ぶとん、傘地などにも用いられてきた。
(11)綿と毛のまじった織物。綿糸を経(たていと)、毛糸を緯(よこいと)にして織った綾織で、繻子のように滑らかで光沢がある。服の裏地などに使う。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。






《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から


道路端に床几(しょうぎ)というものを出して、洗いたての糊のきいた浴衣を着て、団扇(うちわ)で胸をあおいでいるのは、いま行水(ぎょうずい)から上がったばかりなのだろう。十歳ばかりの女の子がシッカロールをまだらにつけて、三つばかりの子供――汗疹(あせも)が出来たのだろうか、頭だけを真白に薬を塗っている――を背負って歩いているのも、いかにも夏らしい。根津片町の八百屋に赤い新芽が見えたので、土産にと少し買う。

急いで歩のくで汗びっしょりになり、目にも口にも流れ入るので、ハンカチであまりしきりに拭くものだから、はてには少し痛くなってきた。あたりは薄暗くはなっていたが、人に見られるのもいやなので、傘をさしたままで歩く。陸橋の下を通る時ふと見ると、若い学生らしい男たちが欄干にもたれて下を見おろしていた。何だかひそひそと話しては笑ったりしている。知らない顔をして急いで通ると、一斉に手を叩いて、「こっちを向け」 などという。 どういうつもりで言うのだろうか。いやしくも学問をする人のしわざだろうかと思うと、なさけない気持ちになった。

家に帰ると、母上は家の外に出て私の帰りを、待っていてくださった。妹は夕食の用意で忙しくしていた。「ただ今帰りました」 の私の言葉も終わらないうちに、母上は、さあ帯も解いて、 着物も脱いで、暑かっただろう、疲れただろう、お湯も沸いているから行水をなさい、などと何から何まで気を配られる。勿体なく嬉しく思って、汗になった麻の着物を脱いで、行水をつかい、あがると、洗濯したての浴衣を出して、
「留守の間に洗っておいたから、着替えなさいよ」などとおっしやる。
妹は妹で、
「姉さん、これ見て。姉さんの大好きなものを煮ました。薩摩炒りも。さあ食事にしましょう」
とすすめてくれる。すきっ腹のまま長い間歩き廻って来たので、空腹にまずいものなしで、すっかりくつろいで楽しくタ食を終えたのでした。

九日。江崎牧子さんへ返事を出す。甲府の伊藤隆次さんと、北川秀子さんにはがきを出す。 邦子の帯を一本仕立てる。午後、植木屋が来たので建仁寺垣根を作ってくれるように頼む。 明日から仕事にかかるといって帰った。洋傘二本張り替えさせる。一つは甲斐絹の二重張りで、一つは毛繻子の普段物。二つで一円十銭だという。
十日。朝早くから植木屋が来る。

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