一葉日記「わか草」①
「わか草」としたのは、「わか艸」と表書された和帳の詠草書入れの余白に記された無題の日記です。明治24年7月17日からはじまります。
七月十七日 みの子ぬしが月次会(つきなみくわい)(1)なり。ひる少し前より家をば出づ。道しるべにとて、母君も出立(いでたち)給ひぬ。高等中学の横手の坂(2)下るほど、雨少し降来ぬ。空は薄墨の様なるくもやうやう立重(たちかさ)なりて、「やがてタだちしぬべし」など、道行(みちゆく)人もいひぬ。真下(ました)まき子(3)の墓谷中なれば、母君と共に墓もうでする程、空いよいよくらく成て、雨いよいよ降(ふり)にふる。こゝにて母君に別れ参らせ、みの子ぬしの家(4)は直(すぐ)其むかひの道なれば、やがて行ぬ。集会者は十人計(ばかり)成し。
(1)萩の舎の仲間、田中みの子の例会は十七日に開かれることが多かったようだ。
(2)「高等中学」は第一高等中学校のこと。明治19(1886)年に東京大学予備門が廃止されて設立。明治27年から第一高等学校に改称された。この坂は、本郷通りから第一高等中学と帝国大学の間を下って根津に出る弥生坂のこと。根津を抜けると谷中に至る。
(3)真下専之丞(晩菘)の次女。晩菘は上京した甲州人に対しても支援を行っている。晩菘と同郷と一葉の祖父樋口八左衛門は同郷で、父の大吉(則義)が江戸へ出府した際には蕃書調所時代の晩菘を頼って蕃書調所の使用人となっている。まき子は、黒川保太郎に嫁したが、明治23年ごろ他界したとされる。
(4)下谷区(現在は台東区)谷中町にあった。「たま襷」のモデルにもなった。
七月廿日 今日は土用(5)の入とぞいふ。土用三郎(6)とかや。「この三日ほどの天気は作物にいといたくかかる所あり」とて、人々空をあふぎて思ひわづらふに、朝よりかきくらし打くもりて、ひる過(すぐ)るころより少しこぼれ来ぬ。さし当りては、何ごとも覚えねど、ことわざいとわづらはしうこそ。そのけにや、今日は風ひやゝかにして、いと暮しよし。
廿一日 朝より雨降る。昼少し過(すぎ)より稲葉君(ぎみ)(7)参る。「いよいよ落(おち)はふれにしかば、車引かばや」と物語らる。かなしきこといと多かり。五時頃帰る。其夜地震す。五分間計(ばかり)にて止む。夜に入ては、雨いよいよ降る。此夜、新聞号外来る。蜂須賀君(ぎみ)貴族院議長に成り、富田鉄之助君(ぎみ)府知事に成る(8)。
(5)立春、立夏、立秋、立冬の前の18日間のこと。季節と季節の変わり目の混沌とした時期を示す。ここでは、夏の土用を指している。
(6)夏の土用入りから3日目のこと。この日が晴れれば豊作、雨ならば凶作というように、その日の天候によってその年の豊凶を占う習慣があった。
(7)稲葉寛。一葉の母多喜(たき)が乳母奉公をしていた本郷湯島の旗本稲葉家の娘鉱(こう)の入り婿。人力車夫は、下層市民の典型的な職業だった。
(8)明治24(1891)年7月21日付で、蜂須賀茂韶が東京府知事を退いて貴族院議長となり、貴族院勅選議員の富田鐵之助が知事に任命された。
廿二日 朝来雨天。今日の新聞(9)に、下田歌子君、加納君のもとへ輿入(こしいれ)せられたる事(10)あり。午後一時頃、師之君のもとより端書来る。縫物の依頼也ければ、直(ただち)に行て品物を持来る。夕刻まで縫物をなす。暮てより、国子とともに買物に通りまで趣く。今宵はびしやもんの縁日(11)成しかば、雑沓いと夥(おびただ)し。女郎花(をみなへし)、朝顔などの植木も、いと多くみえたり。帰宅後、雨やや降増(ふりまさ)る。久保木より魚少し貰ふ。今日釣に行たるのなりけり。
(9)樋口家では当時、新聞を借りて読んでいたという。
(10)歌人で女子教育の先覚者の下田歌子が文部参事官加納久宜と結婚したという誤報らしい。
(11)実際は、本郷薬師の縁日とみられている。
廿三日 朝より空晴れて、日のかげいと暑し。午前之内に、浴衣一枚縫(ぬひ)終りぬ。午後(ひるすぎ)より上野之伯父君(をぢぎみ)(12)参らる。昼飯を出す。種々(さまざま)の物語りあり。四時過に帰宅せらる。夜に入りて、野々宮君(13)、吉田君参らる。野々宮君は試験休みなるよし。十一時帰宅せらる。今宵は夜業なしにて終る。
廿四日 晴天。午前(ひるまへ)にかいまきの綿入をなす。午後より西村君、菊池のお政君(14)参らる。西村君は三時、奥方は四時ごろ帰宅せらる。菓子折をもろふ。日没、針仕事終る。此夜一時に床へ入る。
(12)上野兵蔵。一葉の父則義は、江戸に来て真下専之丞に助けられてしばらくその下で働いた後、勘定組頭の菊池隆吉の中小姓(主の身辺に仕え雑用を請け負う職)地位を得る。その際、同郷の上野兵蔵を実際の血縁はないが名義上の弟として付籍し、仕官先を世話した。(13)当時、築地にあった東京府高等女学校に通っていた。
(14)菊池隆吉の奥方。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
二十四日。 晴。午前中に掻巻(かいまき)の綿入れをする。午後から西村釧之助さん、菊地家の奥方お政さんが見える。西村さんは三時に、奥方は四時ごろ帰られる。菓子折りをいただく。 夕方ごろ針仕事終わる。今夜は一時に就寝。
七月十七日。田中みの子さんの塾「梅の舎」 の月例会の日。昼少し前から家を出る。道案内といって母上も出られる。高等中学の横の坂を下る頃雨少し降り出す。空は薄墨色の雲が次第に重なって、やがてタ立が来るだろうと道行く人も言っていた。真下まきさんのお墓は谷中にある。母とお参りする頃は空もますます暗く、雨もますます激しくなる。 ここで母と別れ、みの子さんの家はすぐ前の道なので、すぐ着く。参会者は十名ほどでした。
七月二十日。今日は土用の入りという。土用三郎とかいう。今日から三日間の天気は農作物にひどく関係するというので、皆空を仰いで心配していると、朝から空も暗く曇って、昼過ぎ頃から少し降り出してきた。さし当たっては別に何も感じないが、諺というものは大そう気がかりなものです。天候異状の為でしょうか、今日は風もひやゝかで大そうしのぎよい。
二十一日。朝から雨。昼少し過ぎに稲葉寛さんが見える。すっかり落ちぶれたので人力車夫にでもなろうかなどと話される。悲しいことばかりが多いものです。五時頃帰られた。夜に地震があった。五分間ほどでやむ。夜になって雨がますます降る。また、夜、新聞の号外が来た。それによると、蜂須賀茂詔氏が貴族院議長に、富田鉄之助氏が東京府知事になる。
二十二日。朝から雨。今日の新聞には下田歌子さんが加納氏と結婚されたとある。午後一時ごろ中島歌子先生からはがきが来る。縫物の依頼なのですぐ行って品物を受取る。夕方まで裁縫。日が暮れてから邦子と買物に表通りまで行く。今宵は毘沙門天の縁日なので大変な雑踏である。女郎花や朝顔などの鉢も沢山見えた。帰宅後、雨がややひどくなる。久保木の姉から魚を少しいただく。今日釣りに行ったとのこと。
二十三日。朝から晴。日射しが大そう暑い。午前中に浴衣一枚縫いあげる。午後から上野の伯父さんが見える。お昼を出す。いろいろ話があり、四時過ぎに帰られた。 夜になって野々宮きく子さんと吉田さんが見える。野々宮さんはいま試験休みとのこと。皆さん十一時頃に帰られる。今夜は夜業(よなべ)は出来なかった。
二十四日。 晴。午前中に掻巻(かいまき)の綿入れをする。午後から西村釧之助さん、菊地家の奥方お政さんが見える。西村さんは三時に、奥方は四時ごろ帰られる。菓子折りをいただく。 夕方ごろ針仕事終わる。今夜は一時に就寝。
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