一葉日記「若葉かげ」⑭

ここでは、萩の舎の月次会の際に行われた「座中の男女の年齢比らべ」の模様について描かれています。

一日(ひとひ)(1)師の君のもとに小集(せうしふ)(2)有し時、「座中の男女(なんにょ)の年齢(とし)比らべせん」といふ人あり。「夫(それ)をかしからん」とて師もの給ふ。男は六人にて女は十四人有り。「負くべきにはあらず」とおもへば、文雅堂(3)のあるじ伊豆田、 一渡りみ渡して数をとる。鈴木重嶺(4)うしは、「七十八」との給ふ。「これ計にても女子(をなご)の方の四人振(ぶり)は有(ある)よ」とて一同笑ふ。梅村のりを(5)ぬし七十、加藤安彦うし七十二、はや二百の数はこえたり。江刺恒久君七十、木村正養(ただかひ)君少し下りて 四十九、水野忠敬子(6)四十、合(あはせ)て 「三百七十九」との給ふ。女の方は師の君四十八、伊東延子(7)ぬし五十九、みの子ぬし三十五、とよ子(8)ぬしも同じく、かとり子ぬし四十七、小川信子ぬし四十五、これら少しは数のうちながら、残るはいづれもいづれも口をしきまでに若し。高田不二子ぬし廿三、前島きく子(9)ぬし廿(はたら)、田辺静子ぬしも「おなじく」、伊東の夏子ぬしも「同じく」といへば師の君、「雷同し給ふにはあらずや」との給ふ。小笠原のつや子ぬし十六、広子(10)ぬし十九、中む田恒子(11)ぬしの十三などいふこと更に口をし。おのれは「廿(はたち)」といへば、師の君、「あまりの掛値(かけね) 也(12)。まけじだましゐか」と笑ひ給ふ。誠のことなるものから、いつまでも若き様に思ひ給ふもをかし。かぞふれば四百十九也。「あなうれしや、四十計のかちにこそ」とみなみなどよむほどに、小出粲(つばら)(13)ぬし来給ひぬ。「すはや、味方の一人ふゑたるよ」とて、男方(をとこがた)又色めきてみゆ。「君はいくついくつ」とせめとへば、おもむろに、「戸籍改めにや。拙者は当年六十歳」との給ふ。まことにはおはすべけれど、空言にやとにやと計にくし。決をとれば、こなた廿(にじふ)のまけに成ぬるぞ、限りなくうらめしきや。 
(1)ある日。先日。
(2)九日の月次会。
(3)旧下谷区(台東区の西部)にあった筆墨商。
(4)号は鈴木翠園(1814 - 1898)。幕末から明治期の幕臣で、歌人。鑓(やり)奉行、佐渡奉行などをつとめ、維新後は佐渡相川県権知事となった。和歌を村山素行、伊庭秀賢にまなぶ。明治11年退官し、東京で短歌結社の鶯蛙吟社を組織した。
(5)梅村宣雄。さらに加藤安彦(松園)、江刺恒久(菊園)と、萩の舎と交わりのあった歌人たち。
(6)水野忠敬子爵(1851 - 1907)幕末から明治時代の大名(沼津五万石の藩主)、華族。戊辰戦争では新政府軍に恭順し、甲府城代に任じられて佐幕派の鎮定にあたる。その後、上総(千葉県)菊間に転封となり、のち子爵。
(7)一葉、三宅花圃とともに萩の舎の三才女とよばれた伊東夏子の母。
(8)萩の舎門人、小笠原艶子の侍女。
(9)日本の郵便制度を築いた前島密の娘。
(10)陸軍中将・政治家の鳥尾小弥太の長女、広子。
(11)海軍軍令部長を勤めた中牟田倉之助の三女、常子。門人のなかで最年少だった。
(12)一葉は、明治5年3月25日(旧暦)だが、このころ、年齢を若くいっていたようだ。
(13)旧石見国浜田藩士出身の歌人。小出粲(1833 - 1908)は、中島歌子の歌塾「萩の舎」の指導的立場にあり、歌人としての一葉を高く評価して、小説をやめて歌道に専心するようにすすめていた。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から

先日、 歌子先生の所で一寸した会合があった時、一座の男女の年齢比べをしようという人がいて、 それは面白かろうと先生もおっしゃる。男は六人で女は一四人でした。女が負けることはあるまいと思っていると、文雅堂の主人の伊豆田さんが全体を見渡して年齢を数えて行く。鈴木重嶺さん七十八。これだけでも女の四人分はあるよといって皆で笑う。梅村宣雄先生七十、加藤安彦先生七十二、もう二百を越えた。江刺恒久先生七十、木村政養先生は少し下って四十九、水野忠敬子爵四十、合計で三百七十九。女の方はまず歌子先生四十八、伊東延子さん五十九、田中みの子さん三十五、とよ子さんも同じ、かとり子さん四十七、小川信子さん四十五、これらは数えるに足る人々だが、残りは誰も誰も残念なほど若い。高田不二子さん二十三、前島きく子さん二十、田辺静子さんも同じ、伊東夏子さんも同じと言うと、先生が、
「いい加減に調子を合わせているのではないの?」とおっしゃる。小笠原艶子さん十六、鳥尾広子さん十九、中牟田恒子さん十三、などと言うのは全く口惜しいほど若い。私は二十というと、 先生は、
「それはあまりにひどい掛値ですね。負けじ魂からですか」
と言って笑われる。本当のことなのに、いつまでも若いように思っておられるのも面白いことでした。数えると四百十九です。
「あゝうれしい。四十ばかりの勝ちですよ」
と皆で大さわぎしていると、小出粲(つばら)先生がお見えになった。
「それ、味方が一人ふえたよ」
と男方は勢づいてみえる。
「先生はおいくつですか」
とお尋ねすると、おもむろに、
「戸籍調べですか。私は当年六十歳」
とおっしゃる。本当にそうなのでしょうが、嘘でないかと憎らしい思いでした。最後は女の方が二十の負けになったのは、限りなく恨めしいことでした。

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