一葉日記「若葉かげ」⑬
きょうの日記から、明治24年6月に入ります。歌の師匠である中島歌子をお見舞いに訪れるところから始まります。
つぐの日(1)、朝まだきに、みの子ぬしにふみ参らす。手ならひども少しして、それより小石川の師の君、昨日(きのふ)いたうつかれ給へるやう成しが心にかゝれば、み様子みんとてとふ。 さしたることもおはさゞりき。ひる頃帰る。
二日 あす半井うしへまからんとて、ふみ参らす。
三日 空少しく曇る。例刻(れいこく)より桃水うしをとふ。君、近きほとりの友がり行(ゆき)給ひき(2)とて、 はしため迎ひして帰り給ふ。此次の趣向ものがたりて、君が説をとひ参らすに、思ふふし名残なくいひ聞せ給ふ。やがて雨少し降初(ふりそめ)ぬ。暇(いとま)こひ参らすれば、「今しばし」などの給ひて、「あやし、君来給ふ折には必らず雨天なるも。しかし、今日は雨降ぬべきことこそあれ。いつになく今朝三時といふに朝床(あさどこ)はなれつるは」との給ひて、いたく笑ひ給ふ。「さもや侍らん。此後(こののち)我身まうでん時には、かならず朝寐し給ひてよ」とざれごといへば、君、いとまおもてにして、「うけたまはりぬ」との給へしは、いとおもなかりき。門(かど)の戸いづるやがて車ものして(3)帰る。家に入る頃より、 雨いといたく降る。「はやく暇申してよかりき」などかたりかわす。
六日 小石河稽古也。人々におくれて、みの子ぬしと二人手ならひする(4)。帰路くら子(5)ぬし、我家へ来給はんとあるに、いなみかねてともなふ。夜八時頃帰り給ふ。頼まれたる針仕事遅くまでする。
(1)明治24(1891)年6月1日。
(2)近くのお友だちのところへ行かれた。桃水と同じ東京朝日新聞記者でもあった小田久太郎(1866~1935)が、同じ平河町に住んでいた。
(3)辻車(道ばたで客を待つ人力車)をひろって。
(4)中島歌子は、加藤千蔭を流祖とする千蔭流の書道を弟子たちに教えていた。
(5)歌子の妹の中島倉子。
七日 よべの残りの仕事ども早くよりして、十時頃出来る。それより机にむかふ。
八日 今日は灸治(きうぢ)に行(ゆか)ばやの心ぐみ成しも、空もよう少しあやしければ、やめにす。 午後(ひるすぎ)より晴る。夜十二時床に入る。
九日 快晴。今日は礫河(こいしかは)の月次会(つきなみくわい)(6)なれば、早朝(つとめて)より支度などせばやとて、四時頃起出づ。十時頃至る。来会者廿人計。散会(ひけ)は五時頃成き。おのれは少し残りて名古屋の礼子(7)ぬしに送るべき各評(8)の名先(なさき)などしたためて、帰宅せしは既に日暮て後(のち)成し。今日の床かざりは、水府立原某(すいふたちはらそれがし)(9)が画きたる竹に鶴の掛ものに、古さつまの花瓶に夏菊と姫百合の投入も優にやさしかりき。小笠原家(10)より、マキノーリヤ(11)とやらん、名はこちたけれどうるはしき花送られたり。もと我国のものならねば、趣はことなりたるものから、中々に見所多かり。葉はゆづる葉に似て、それよりはうらの色薄く、花はふやうに類したれど、中のしべことなれり。名残なくひらけば、さし渡し六寸位(ぐらゐ)にはなれりとか。名のうるはしからぬ為、歌によまれぬこそくちをしけれ。此花のみならず、かゝる類ひいと多かり 。
十日 朝より空くもる。みの子ぬしとともに、今日は図書館(12)に書物みに行(ゆか)んの約成しかば、序(ついで)をもて灸治にも行かばやとて、ひるより家を出て下谷に行く。二時頃より、みの子ぬしと共にと書館に行(ゆく)。六時帰宅す。
(6)毎月9日が例会日になっていた。
(7)中村礼子。会計検査院の官吏だった中村平八郎の娘とみられている。
(8)参加者たちが無記名で出詠を回覧し、評を加えて集会の席上で開く。
(9)立原杏所(たちはらきょうしょ、1785 - 1840)。江戸後期の南画家。立原翠軒の子。水戸藩士。水戸の町人画家林十江、後に谷文晁に学び、さらに渡辺崋山、椿椿山らと交わり、品格高い花鳥虫魚図を得意とした。
(10)萩の舎門人、小笠原艶子の家とみられる。
(11)マグノリア(Magnolia)。モクレン科モクレン属の植物の総称。花は一般に大形で芳香があり、華麗。Magnolia は、フランスの植物学者ピエール・マニョル (Pierre Magnol) に因んで名づけられた。
(12)東京図書館。明治13(1880)年発足。明治18年に湯島聖堂から上野公園に移転し、上野図書館と愛称された。30年に帝国図書館と改称された。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
(六月一日)翌日、早朝にみの子さんに手紙を書く。お習字を少しして、それから、歌子先生が昨日はひどくお疲れのようだったのが気がかりなので、 お見舞にお訪ねする。 大したこともおありではなかった。 昼頃帰る。
二日。 明日半井先生をお訪ねしようと思い、 そのお手紙を書く。
三日。 空少し曇る。 いつもの時間に桃水先生をお訪ねする。先生は近くのお友だちの所へ行かれたというので、 女中さんが迎えに行き、 戻って来られる。次の小説の構想などをお話して先生のお考えをお聞きすると、お考えを残るところなくお話して下さる。やがて雨が少し降り出したので、 お暇しようとすると、
「もうしばらくいいでしょう。 それにしても、あなたが見える日は必ず雨になるのは変ですね。 しかし今日は雨が降る訳があるのです。それは、いつもと違って、今朝は三時に起きたのですからね」
と言って大笑いなさる。
「それでは雨が降るのも当然でしょう。これからは、私がお伺いする日は必ず朝寝をなさって下さい」
と言うと、 先生はひどく真面目な調子で、
「承知いたしました」
とおっしやる。私はかえって嬉しくも恥すかしくも思ったのでした。門を出るとすぐ車をひろって帰る。家に着く頃から雨がはげしく降る。はやくお暇してよかったなどと母と話す。
六日。萩の舎の稽古日。皆さんが帰ったあと、 みの子さんと二人でお習字をする。帰りに中島くら子さんが私の家へ来たいと言われるのを断りも出来ずにお連れする。夜八時頃に帰られる。その後、頼まれた針仕事を遅くまでする。
七日。昨夜の残りの針仕事を早くからして、十時頃出来る。それから机に向かう。
八日。今日はお灸に行く予定だったが、空模様が少し怪しいので中止する。午後より晴れる。夜十二時床に入る。
九日。快晴。今日は萩の舎の月例会なので、早朝から支度などもあり、四時ごろ起きる。十時ごろ到着。来会者は二十人ばかり、散会は五時ごろでした。私はあとに残って、名古屋の中村礼子さんに送る各評の名先などを書いて、帰宅したのは既に日が暮れた後でした。今日の床の間の飾りは、水戸の立原という人が描いた竹に鶴の掛軸と、古薩摩焼の花瓶に夏菊と姫百合が活けてあったのも優雅でやさしいものでした。小笠原家からは、マキノーリヤとかいう大げさな名の、美しい花が贈られていた。勿論、国産のものではないので、風情は違っているが、かえって趣のあるところが多い。葉はゆずり葉に似ているが、それより葉裏の色が薄く、花は芙蓉に似ているが、中のしべが違っている。すっかり開ききると直径は六寸ぐらいにはなるとか。名前が美しくないために歌に詠まれないのが残念です。この花に限らず、こういう類は大変多いものです。
十日。朝から曇る。みの子さんと今日は図書館に書物を見に行く約束だったので、ついでにお灸にも行こうと思って、昼から家を出て下谷に行く。二時頃からみの子さんと共に図書館に行き、 六時帰宅。
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