一葉日記「若葉かげ」⑫

きょうは明治24年5月15日の日記から。この4日前、訪問中のロシア帝国皇太子・ ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ (後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県の大津で警察官・津田三蔵に斬りつけられ負傷した大津事件が起きています。

十五日 ひる過るほどより、契りしやうに(1)半井のうしを平河町にとふ。こたびの家はいとめでたき所(2)也けり。行てのち、しばし有て帰らせ給ふ。「何等(なにら)のみ用にや」とゝひ参らするに、「いなとよ(3)、我がしる大阪の書し(4)にて、雑誌(5)をこたび発兌(はつだ)(6)せんとす。『小説かく人世話し給はれ』と申つれば、『君をこそ』と物語りおきつるなれ。さるをあやにく(7)に、「露国太子殿下の急変(8)にて俄に用事出来たり』とて、今朝しも汽車にて帰阪なしたり。断りまゐらせんともおもひたれど、はや及ばじとおもひてさしおきぬ。百罪ゆるし給てよ」と詫(わび)給ふも心ぐるし。此日はものがたり少しして帰る。日没まへ成し。
(1)約束したとおりに。
(2)たいそう素晴しいところ。佐久間町の家が裏屋であったの比べ、平河町のほうは高級住宅地に建つ閑静な家との印象を受けたようだ。
(3)いやいや。「いなとよ」の「とよ」は、格助詞「と」と終助詞「よ」のついたもの。他人のことばに同意せず、自分の気持や意見を表わすときに発する。
(4)書肆。書物を出版したり売ったりする店。
(5)明治24年4月創刊の『なにはがた』(浪華文学会編)のことと見られている。
(6)発行。「兌」はひらくの意。
(7)あいにく。都合が悪いこと。
(8)大津事件。1891(明治24)年に滋賀県大津市でおこったロシア皇太子傷害事件。5月11日、来日中のロシア皇太子ニコライが、警備にあたっていた巡査津田三蔵に斬りつけられ負傷した。政府はロシアの報復を恐れて大逆罪を適用し、犯人の死刑を司法当局に要求した。が、大審院長児島惟謙は政治的圧力を排して無期徒刑に処し、司法権の独立を示した。

廿七日 前約(ぜんやく)の小説稿成しをもて、桃水ぬしにおもむく。今日は、我れ例刻より遅かりしをもて、君既におはしき。種々(さまざま)我が為よかれのものがたりども、聞えしらせ給ふ。帰宅し侍(はべら)んとする時に、「今しばし待給へ。君に参らせんとて、今料理させおくものゝ侍れば」と、まめやかに(9)の給ふを、例(いつも)のあらくもいろひかねて(10)其まゝとゞまる。やがて料理は出来ぬ。「こは、朝せん元山(ウォンサン)(11)の鶴也」となり。さる遠方のものと聞(きく)に、こと更にめでたし。たふべ終れば、君、「いでや帰り給へよ。 あまりくらく成やし侍らん」など聞え給ひて、今日もみ車たまはりぬ。かへりしは七時。
卅日 残りの原稿、郵便して送る。此日は礫河(こいしかは)の稽古也。
卅一日 みの子(12)ぬしの発会(13)三番町の万源(14)にて催しあれば、おのれは早くより趣く。会主としばしものがたり居るほど、師の君もまた来給ひぬ。来会する人卅人計おはしき。 五時といふ頃人々帰る。おのれは七時頃にや有けん、家に帰る。
(9)懇切にゆきとどいて。
(10)無理には口を出せずに。
(11)朝鮮民主主義人民共和国の南東部、日本海に面した港湾・軍港都市。1880年、天然の良港である元山港が日朝修好条規により開港。以来、元山では日本商人による大豆輸出が盛んであったが、1889(明治22)年には、朝鮮で実施された穀物輸出禁止(防穀)令をめぐって日本と朝鮮が対立する防穀令事件が起こった。桃水は、明治14年5月からしばらく朝日新聞の通信員として朝鮮半島に滞在した経験をもっていた。
(12)田中みの子。島根県出身で、建築請負業をしていた田中市五郎の未亡人。「梅の舎」の雅号で歌会をしばしば開いていた。自宅は谷中にあった。
(13)年の初めに開かれる歌会。
(14)麹町区(現在は千代田区の一部)三番町にあった料理屋。萩の舎の発会や納会の会場によく使われた。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から

十五日。 昼過ぎ頃から、約束どおりに、半井先生を平河町のお宅に訪ねる。今度のお宅はたいへんすばらしい所でした。私が着いてしばらくしてから先生がご帰宅になる。何のご用かとお尋ねすると、
「いや、実は、知り合いの大阪の出版社で、今度雑誌を発行することになり、小説を書く人を世話してほしいというので、あなたを第一に推薦しておいたのです。ところが、あいにく、ロシア皇太子殿下の事件で急用が出来たといって今朝の汽車で帰阪してしまったのです。お断りの手紙をあげようと思ったのですが、もう間に合わないと思ってそのまゝにしたのですが、この罪をお許し下さい」
とおっしゃる。心苦しい思いでした。今日は少しお話だけして帰る。日暮れ前でした。

二十七日。約束の小説の原稿が出来たので、それを持って桃水先生を訪ねる。今日はいつもの時間より遅かったので、先生は既にご在宅でした。いろいろと私のためを思ってお話して下さる。お暇しようとすると、
「今しばらくお待ちなさい。さしあげようと思って料理させているものがあるのです」
と心からおっしゃるので、いつものように無理にご辞退も出来ず、そのまま残る。やがて料理が出来ると、
「これは朝鮮の元山(げんざん)の鶴ですよ」
とおっしゃる。そんな遠方のものをと聞くにつけても一層有難いことでした。食事が終わると、
「さあ、もうお帰りなさい。これ以上いるとあまり暗くなってしまうでしょう」
などとおっしゃって、今日も車をいただいたのでした。帰宅は七時。
三十日。 残りの原稿を郵便で送る。今日は萩の舎の稽古日。
三十一日。田中みの子さんの歌会の発会式が三番町の万源で催されるので、 私は朝早くから行く。 みの子さんとしばらく話していると、歌子先生もお見えになる。来会者は三十人ばかり。五時頃に皆さんは帰られる。私は七時頃だったでしょうか家に帰る。

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