一葉日記「若葉かげ」⑩
明治24年4月26日の日記のつづき。一葉との付き合いかたなどについて、桃水から話があります。
やがて、例(いつも)のいとおだやかに、「昨日はあまりよき日成しものから、今日の雨をば心つかで手紙参らせたるはいとあしき業也き。実は小宮山君も俄に脳の病ひやしなはんとて、此明(このあけ)にかま倉地方へ赴むかれたるを」とて、いといとう気の毒がり給ふ。小説の事(1)につきてもねんごろに聞えしらせ(2)給ひて、「此次(このつぎ)はかゝるもの書み給へ。おのれかねてよりかゝんの心組み有しかども、暇を得ずして日頃過ぬ」とて、「かくかくしてかくせばをかしからん」など物語り給ふ。「それより先に今日はまづ君に聞え置度事(おきたきこと)ありて」との給ふ。「そは何事にか」と問参らすれば、「いなとや、余の事にもあらず。余や、いまだ老果たる男子(をのこ)にもあらず、君はた妙齢(めうれい)の女子(をなご)なるを、交際(つきあひ)のエ合甚だ都合よろしからず」と君真に迷惑気にの給ふ。さもこそあれとかねて思へば、おもて火の様に成ておのが手の置場もなく、只恥がわしさをもておほはれたり。猶(なほ)の給はく、「よりて吾れ一法を案ぜり。そは外ならず。余は君を目して我が旧来の親友同輩の青年と見なして万(よろづ)の談合をもなすべければ、君は又余をみるに青年の男子也とせで、同じ友がきの女子と見給ひて隔てなく思ふ事の給ひね」と聞え給ひて打笑みたり。「我が家の貧なるをも君しろしめし給ふものから、もし差つかゆることもあらば何にても言ひおこせよ。我身に応ずる事は心の限りなしてん」などの給ひて、君が貧困の来歴など(3)残るくまなくつげ給ふにも、さまざま思ふこと多かり。ひる飯又君がもてなしにあづかりて、家にかへる。師がの給ふ所をきけば、吾が家のまづしきは未だまづしとすべきにもあらず、君が経来り給ひけんこそ中々にまさり給へれ、とぞ覚ゆる。
(1)前の日に届けた草稿についての感想や掲載の可能性など。
(2)親切に、お話ししてお聞かせ申し上げる。
(3)半井桃水は、花柳界への出入りも多く生活は派手だったが、負債もかさんで暮しは豊かではなかったという。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
やがて、いつものおだやかな調子で、
「昨日はあまりよい天気だったので、今日が雨だとは思わず、手紙をあげたのは悪かったですね。それに、実は小宮山君も急に病気保養のため、今朝早く鎌倉へ発ったのです」
とひどく気の毒がっておっしゃる。小説のことについても親切に教えて下さり、
「この次はこんな小説を書いてみなさい。私もかねてから書いてみようと心組みしていたのですが、暇がなくてそのまま過ぎてしまいました。構想をこうしたならばきっと面白いだろう」
とおっしゃる。また、
「それよりも今日はまずあなたにお話したいことがあるのです」
とおっしゃる。何事だろうと思ってお尋ねすると、
「いや、 別に大したことでもないのだが、私はまだ老いぼれでもなく、 それに、また、あなたは年若い女性なのです。で、おつきあいをするのは甚だ具合が悪いのです」
と先生は本当に迷惑そうにおっしゃる。私はかねてから気にしていたことなので、顔は火のように熱くほてり、手の置き場もないほどの恥ずかしさで一杯でした。
先生は更に語をついで、
「そこで一計を案じたのです。それはこうです。私は、あなたを昔からの親友仲間の青年と見なして、あらゆるお話をしますので、あなたは、また、私を青年の男子と見ないで、同じ女性の友達と思って、遠慮なく思うことを話して下さい」
と言って、にこにこしていらっしゃる。また私の家が貧乏なこともご存知で、
「もし、 困ったことがあったら、何でも言ってよこしなさい。私で出来ることは、心の限りしてあげましょう」
とおっしやって、ご自分のこれまでの貧困の経歴などをすっかり話されるのを聞くにつけても、さまざまに思うことが湧いてくるのでした。またしてもお昼をしただいて帰る。先生のお話を聞けば、我が家の貧しさはまだ貧乏の中にも入らないようだ。先生のご経験の貧しさは、今の我が家以上のものだと思われました。
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