一葉日記「若葉かげ」⑦
明治24年4月15日の日記の後半。ひきつづき、初めて桃水を訪れたときのことが語られていきます。
おもむろに当時の小説のさまなど物語り聞し給ひて、「我思ふに叶ふべきは人好まず、人このまねば世にもて遊ばれず。日本の読者の眼の幼ちなる、新聞の小説といわば有ふれたる奸臣賊子(1)の伝、或は奸婦いん女(2)の事跡の様の事をつゞらざれば、世にうれざるをいかにせん。我今著す幾多の小説、いつも我心に屑(いさぎよ)しとしてかきたる物はあらざる也。されば世の学者といわれ、識者の名ある人々には、批難攻撃面ても向けがたけれどいかにせん。我は名誉の為著作するにあらず、弟妹父母に衣食させんが故也。其父母弟妹の為に受くるや、批難もとより辞せざるのみ。もし時ありて我れわが心を持て小説をあらはすの日あらんか(3)、甘んじて其批難は受ざる也」との給ひ終つて大笑し給ふさま、「誠にさこそ」と思はれ侍れ。
(2)悪知恵に富んだ女や好色な女。
(3)あるならあそのときは。
猶の給はく、「君が小説をかゝんといふ事訳(ことわけ)、野々宮君よりよく聞及(ききおよ)び侍りぬ。さこそはくるし くもおはすらめど、しばしのほどにこそ、忍び給ひね。我れ師といはれん能はあらねど、談合の相手にはいつにても成なん。遠慮なく来給へ」と、いとねんごろに聞え給ふことの限りなく嬉しきにも、まづ涙こぼれぬ。物語りども少しする程に、「タげしたゝめ給へ(4)」とて、種々(さまざま)のものして出されたり。「まだ交りもふかゝらぬものを」と思へば、しばしば辞すに、君、「我家にては(5)田舎ものゝ習ひ、旧き友と新らしきとをとはず、美味美食はかきたれど、箸をあげさせ参らするを例とす。心よくくひ給はゞ、猶こ そ嬉しけれ。我も御相伴(おしゃうばん)はなすべきに」とあまたゝび聞え給へば、いろいもやらで(6)たうべ終りぬ(7)。かゝりしほどに、雨はいや降に降しきり、日はやうやうくらく成ぬ。「いでや暇(いとま)給はりなん」といへば、君、「車はかねてものし置たり。のりてよ」との給ふ。帰(かへ)さにしたゝめ置たる小説の草稿一回分丈差置(だけさしおき)て、君が著作の小説四、五冊を借参らせて出ぬ。君がくまなき(8)み心ぞへの車して、八時といふ頃には家に帰りつけり。
(4)夕食を食べていらっしゃい。
(5)桃水は4人弟妹の長男として対馬・厳原藩、いまの長崎県対馬市厳原町生まれた。少年期は父の仕事の都合で釜山などで過ごした。
(6)おことわりもできず。
(7)食べおわった。
(8)行きとどかないところのない。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
静かな調子で現代の小説界の様子などを語って下さる。
「私の理想とする小説は世間の人に好まれないのです。従って世にもてはやされないのです。日本の読者の眼は幼稚で、新聞小説と言えば、ありふれた奸臣賊子の伝記とか、奸婦淫女のことでなければ受け入れてくれないのです。嘆かわしい事です。今私が書いている小説は、どれも皆、すっきりした気持ちで書いているものは無いのです。だから世の学者や批評家からは批難攻撃され顏を向けることも出来ないのです。しかし、私は名誉のために小説を書いているのではないのです。家族を養うために書いているのです。その家族を養うために受ける批難は、受けざるを得ないのです。いつの日か我れとわが心で理想の小説を書くことが出来れば、断じてそんな批評は受け付けませんよ」と言って大笑いなさる様子は、 本当に、さこそと思われるのでした。
更に先生は言葉を続けて、
「あなたが小説を書きたいという事情は野々宮君から詳しくお聞きしています。どんなにか苦しい事だろうとはお察しいたしますが、しばらくの間は辛抱なさい。私は、先生と言われる程の才能はありませんが、お話のお相手にはいつでもなりましょう。遠慮なくいらっしゃい」
と親切におっしやるのが、大そう嬉しくて、涙がこぼれました。
お話など少しするうちに、「タ食を」 と言って色々な物を出されました。まだご懇意でもないのにと思って辞退したのですが、 先生は
「私の家では、田舎の風習で、旧い友も新しい友も区別なく、ご馳走は無いが、箸を取ってもらうのをきまりにしています。 気持ちよく食べて下さればなお嬉しいのです。私も一緒にお相伴しますから」
と何度もおっしゃるので、お断りも出来ずご馳走になったのでした。そのうちに雨はますます激しくなり、日も次第に暗くなってきたのでお暇申そうとすると、
「車は頼んでおいたので、乗ってお帰りなさい」
とおっしやる。帰り際に、書いて持って来た小説の原稿一回分だけをお渡しし、先生がお書きになった小説四、 五冊を借りてお暇を致しました。先生の細かなお心くばりが慕わしく思われて、 八時頃に家に帰り着く。
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