一葉日記「若葉かげ」⑥

 ここからは、明治24年4月15日の日記にうつります。


初めて桃水を訪問

十五日 雨少しふる。今日は野々宮きく子ぬし(1)が、かねて紹介の労を取たまはりたる半井(なからゐ)うし(2)に、初てまみえ参らする(3)日也。ひる過る頃より家をば出ぬ。君が住給ふは海近ぎ芝のわたり南佐久間町(4)といへる也けり。かねて一たび鶴田といふ人(5)までものすること有て、其家へは行たる事もあれば、案内はよくしりたり。愛宕下の通りにて、何とやらんいへる寄席のうらを行て突当りの左り手がそれ也。

(1)野々宮菊子。一葉の妹くにの友人。菊子と東京府高等女学校の同級だった幸(半井桃水の妹)を通じて、半井家に寄宿していた鶴田たみ子の仕立物をくにが引き受けた。それが契機となって一葉は桃水を知ることになる。
(2)半井桃水(1860~1926)。小説家。対馬の人。本名冽(きよし)。別号に菊阿彌。明治21(1888)年に東京朝日新聞の記者となり、多くの新聞小説を執筆。俗曲の作詞家としても知られる。樋口一葉に小説の手ほどきをした。著「天狗廻状」など。「うし」は、学者や師匠に対する尊敬語。
(3)お目にかかる。
(4)いまの東京・港区の西新橋。
(5)鶴田たみ子。桃水の妹幸の学友で、半井家に寄宿していた。福井県・敦賀出身の写真館の一人娘。

門くゞりいりておとなへば (6)いらへ(7)して出きませしは妹の君也。「此方へ」との給はすまゝに、左手の廊下より座敷のうちへと伴れいるに、「兄はまだ帰り侍らず。今暫く待給ひね」と聞え給ひぬ。「誠や、君は東京朝日新聞(8)の記者として、小説に雑報に(9)常に君があづかり給ふ所におはせば、さもこそはひまもなくおはすべけれ」 と思ひつゞくるほどに、門(かど)の外に車のとまるおとのするは、帰り給ひし也けり。やがて服など常のにあらため給ひて出おはしたり。初見の挨拶などねんごろにし給ふ。おのれまだかゝることならはねば(10)、耳ほてり唇かわきて、いふべき言ともおぼへずのぶべき詞もなくて、ひたぶるに礼をなすのみ成き。
「よそめかいか計おこ(11)なりけん」と思ふもはづかし。君はとしのみ卅(みそぢ)計にやおはすらん。姿(なり)形など取立てしるし置んもいと無礼(なめ)なれど、我が思ふ所のまゝをかくになん。色いと白く面ておだやかに少し笑み給へるさま、誠に三才の童子(わらべ)もなつくべくこそ覚ゆれ。丈けは世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給へば、まことに見上る様になん。

(6)音をたてれば。この意も掛けて、訪問すれば、訪ねれば。
(7)返事。返答。
(8)1888(明治21)年創刊。1940年に「大阪朝日新聞」といっしょになって「朝日新聞」に改まる。
(9)雑報だけでなく、桃水痴史として新聞小説も書いていた。
(10)慣れていないので。
(11)おろか。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。






《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から

十五日。雨少し降る。今日は野々宮きく子さんがかねて紹介してくれた半井桃水先生に初めてお目にかゝる日。昼過ぎに家を出る。先生のお住まいは海に近い芝の南佐久間町という所です。以前に一度、その家の鶴田という人に用事で行ったことがあり、様子はよく判っていました。愛宕下の通りで、何とかいう寄席の裏を行き、突き当たりの左手がその家です。

門をくぐりお訪ねすると、返事をして出てこられたのは妹さんでした。「こちらへ.」と誘われて、左手の廊下から座敷へ入る。

「兄はまだ帰っていませんのでしばらくお待ち下さい」
とおっしゃる。 ほんとに先生は東京朝日新聞の記者として小説や雑報を書いていらっしゃるので、さぞかしお忙しい事だろうと思いを巡らしていると、門の外に車の停まる音がしたのは、お帰りになったのでした。

やがて普段着に着替えて出て来られ、初対面の挨拶を丁寧になさる。私はまだこのような事に慣れていないので、 耳はほてり、唇は乾き、何と言ってよいか言葉もなく、ただひたすらおじぎをするばかりでした。よそ目にはどんなにか愚か者に見えた事だろうと思うと恥ずかしい限りでした。

先生は三十歳ぐらいでしようか、 お姿や容貌などを特に書き記すのは大変失礼な事ですが、思った通りを書いておきます。顔色は大変よろしく、おだやかで、少し微笑まれたお顔は、ほんとに三歳の幼児もなつくように思われました。背たけは普通の人よりも高く、肉付きよく肥えていらっしゃるので、ほんとう に見上げる程でした。

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