一葉日記「若葉かげ」④
明治24年4月11日の日記、吉田家花見集会のつづきです。
かゝりしほどに(1)師の君も友だちの君たちも来給ひぬ。龍子(たつこ)の君(2)、静子の君(3)は、きそひ舟(ぶね)見にまねかれ給ひて、「こなたのむしろには後にこそつらならめ(4)」とて出行(いでゆき)給ふ。難陳(なんちん)(5)などもよふすほど、まことに心や空にあくがれけん、花のかげ計みえてそゞろにすぎぬ。(1)こうしていたうちに。
(2)田辺花圃(本名・田辺龍子)。一葉とともに萩の舎の才媛と呼ばれた。父は外務官僚だった田辺太一。「薮の鶯」が近代女流小説家第1号と称されるようになり、花圃の成功を見て一葉は小説で身を立てる決心をしたといわれている。明治25年に評論家の三宅雪嶺と結婚した。
(3)田辺静子。龍子の従兄の妻。この日、龍子と静子は競漕会に招待されていた。
(4)後できっとごいっしょいたします。
(5)難陳歌合。「難」は相手側の歌を論難する、「陳」は相手の論難に対して陳弁する意。判者が勝負を決定する前に、左右が互いに歌のよしあしを論議しあう過程をもつ歌合。「六百番歌合」など。
折から花火のあがりぬれば、師の君、(6)伊東夏子。萩の舎の門人で、一葉と同じ「なつ」という名だったこともあり、仲が良かったという。
花にはな火をそへてみるかな
とかき給ひて、「此(この)かみつけ給ヘ」と伊東の夏子ぬし(6)にしめさせ給へば、君たゞちに、
思ふどち(7)まどゐする(8)さへうれしきを
とかひしるし給ひてさしおき給ふさま、例(いつも)ながら(9)優にうるはしうこそ。更にみの子の君、句のしもかき給ふ。
蛙(かはづ)の声ものどけかりけり
おのれに、「かみを」 とすゝめ給ふに打おどろかれて、かの花かげにあくがれありくうかれ心呼かへすなど、まことにあわたゞし。「時うつる(10)」とせめられて、
おもふどちおもふことなき花かげは
といひたらんやう成しが、うつしごゝろ(11)ならねば覚えず。猶(なほ)君たちの玉の言の葉(12)いとしげかりしもみな忘れにたり。この事終りて後、久子の君(13)が弾(ひき)すさび(14)給ひしことのねは、心なき(15)おのれさへ、「松風のひゞきともやいふべからん(16)」とおもはれ侍りき。「いでや日もくれなんとすなるを、御(お)ことのねにこゝろはひかるゝものから、花かげのくらくならんもいとをしければ」と師の君のの給ふ折しも、龍子の君もしづ子の君も帰り来給ひぬ。あるじの君、「今しばし」ともの給ひしかど、まかり申して(17)出ぬ。
(7)気の合う者同士。
(8)集まって楽しむ。
(9)常と変わらず。
(10)時間が経つ。
(11)正気。平常の理性ある心。
(12)美しい言葉。
(13)吉田久子。かとり子の妹。
(14)なぐさみに弾く。弾いて気分を晴らす。
(15)情趣がわからない。
(16)「琴のねに峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ」(拾遺・斎宮女御)による。
《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から
そうこうするうちに歌子先生も他の友達も皆みえた。田辺龍子さん、田辺静子さんはボートレースに招待されて、「此処へは後で」と言って出て行かれた。議論したり批評し合ったりする間は、私の心は大空にさまよい出たのでしょうか、花の姿ばかり思われているうちに歌会は何となくを終わってしまいました。
丁度その時、花火があがりました。すると先生が、
花に花火をそへて見るかな
と書いて、「これに上の句をつけなさい」と伊東夏子さんに渡される。彼女はすぐに、
思ふどちまどゐするさへうれしきを
と書いて差し出される様子は、 いつものことながらすばらしい。
また田中みの子さんが下の句を詠まれる。
かはづの声ものどけかりけり
私に 「上の句を」 とおっしゃる声にびっくりして、花のかげにさまよっていた心を呼びかえすなど、あわただしい思いでした。早く詠みなさいと責めたてられて、
おもふどちおもふことなき花かげは
と言ったようですが、 夢中だったので覚えていません。皆さんの立派な歌も多かったのですがみな忘れてしまいました。歌会が終わった後、かとり子さんの妹の久子さんが弾かれた琴の音は、風流心のない私にも松吹く風の音のようにすばらしく思われました。
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