一葉日記「若葉かげ」③

山下といふ所よぎりて(1)、むかし住けん宿のわたり(2)過るほど、よの移り行さまこそいとしるけれ(3)。まだ八(や)とせ計(ばかり)のほどに下寺(したでら)(4)といひつるおきつち所(どころ)(5)は、鉄の道引(ひき)つらねて汽車の通ふ道とは成ぬ。其車(そのくるま)とゞむる所を始め、区の役所、郵便局など其頃(そのころ)思ひもかけざりしものあまた所出来(いでき)にたり。わがはらから(6)難波津(なにはづ)(7)ならふ頃、その師のがり行とて常にこのあたり行かよふほど、「やがてはかくならん」など人の語りてきかせつれど、「そはいつのよの事なるべき。蜃気楼(しんきろう)のたぐひにこそ」と打笑(うちゑ)み艸(ぐさ)(8)にしたりしも、よの事業の俄(には)かなる、早くも聞けんやうに成にたるを、「我其折(そのをり)に露たがはず、何仕(なにし)いでたる事はなくて(9)徒(いたづら)にとしのみ重ねたるよ」と打なげかれぬ。 

(1)上野停車場の東側。旧居は、徒町3丁目33にあった。
(2)あたり。
(3)はっきりしている。
(4)寛永寺の別院。いまの上野駅構内にあたるところにあった。
(5)墓地。
(6)長兄の泉太郎のこと。明治12年ころ、浅草三十間堀の小永井小舟の感学塾に通っていた。明治20年12月に肺結核のため享年23歳で死んでいる。
(7)王仁(わに)が詠んだという『古今和歌集』仮名序の「難波津に咲くや此の花冬ごもり今は春べと咲くや此の花」の歌の称。手習いの始めに用いたので、手習いの初歩の意にも用いられる。
(8)笑い話。「うち」は接頭語。
(9)何ひとつ成しとげたことはなく。

このほとりより車ものして(10)角田河(すみだがは)(11)までは行たり。枕ばし(12)といふより車はかへしにき。散(らり)もはじめず、咲ものこらぬ花の匂ひいとこまやかに、遠くのぞめば只一(ただひと)むらの雲かと計(ばかり)うたがわれ、近くみ渡せば梢(こずゑ)につもる雪かとのみ見ゆめる。まだ人け少なきほどゝて、花のかげを我がものにしてみありくほど、まこと小蝶(こてふ)に身をかへたらん心地(13)ぞする。秋葉(14)、しら髭(ひげ)のわたりよぎりて、梅若(うめわか)の塚までも花を探りき。このあたりには、人のかげもなきがいと嬉(うれ)し。かへさ(15)には、長命寺の桜もちゐ(16)求めて妹に渡しぬ。 こは母君にまゐらせんとて也。 おのれは三(み)めぐりのほとりにて袂(たもと)わかちぬ(17)

(10)人力車をやとって。
(11)隅田川。
(12)東京スカイツリーのそばを流れる北十間川が隅田川に注ぐところに架かる小橋。墨堤の入口。
(13)中国の荘周が胡蝶となった夢を見て、醒めてから、自分が夢で胡蝶となったのか、胡蝶が今夢の中で自分になっているのか疑った故事が「荘子‐斉物論」にある。
(14)秋葉神社。以下、白髭神社、梅若塚(謡曲「隅田川」で知られる梅若丸病死の供養塚)、長命寺、三囲神社というように墨堤・向島の名所がつづく。
(15)帰りがけ。帰り道。
(16)長命寺桜もち。創業者山本新六が享保二(1717)年に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして考案し、向島の名跡・長命寺の門前で売り始めた、とされる。
(17)別れた。

かとり子(18)ぬしの家は、その御社(おやしろ)のそがひ(19)に高くそびえたる三階がそれ也。おのれより先に、みの子の君、つや子の君(20)おはしき。例(いつも)のざれごといひかわすほどに、今日は大学の君たちきそひ舟(ぶね)(21)ものし給ふとて、はや木(この)ま木まにこぎいで給ふも折からいとうれし。遠眼鏡ものしてみ渡せば、此(この)高どの(22)ゝしたこぎ行やうにぞみゆる。赤しろ青紫など組々にて服の色わかち、おのがじゝ(23)漕きそふさま、水鳥などのやうに心のまゝ也。堤にはその友だちの君なるべし、「赤よ」「白よ」などおのが引方(ひくかた)を呼(よび)はげまして、心もとなげ(24)に舟とゝもにかけ給ふもいといさまし。みの子の君うらやましげに見居たまひて、「かち給はゞさもこそ嬉しからめ」との給はすに、おのれも、「まけたまはゞさもこそくやしからめ」と打うめきて笑はれにき。

(18)前出の吉田縑子(かとりこ)。
(19)後ろのほう。背後。
(20)田中みの子と小笠原艶子。ともに萩の舎の門人。
(21)学部対抗レガッタの草分けである、帝国大学春季競漕会(第5回)。
(22)高殿。かとり子の家を指している。
(23)各自それぞれ。思い思いに。
(24)待ち遠しくていらいらする。じれったい。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》『完全現代語訳・樋口一葉日記』(アドレエー、1993.11)[訳・高橋和彦]から

上野山下という所を過ぎて、むかし住んでいた家のあたりを通ると、様子はすっかり変わってしまっていました。あれからまだ八年しかたっていないのに、下寺(したでら)といっていた台地は鉄道が敷かれ汽車が通るところとなった。駅をはじめ、区役所、郵便局など、思いもしなかったものが沢山できていました。妹と習字をならっていた頃、先生の所へ行くとき、いつもこのあたりを通っていたのですが、いつかはこんなになるだろうと、人々が話して聞かせてくれましたが、それはいつのことかしら、蜃気楼のようなものだろうと笑っていましたのに、世の中の事業はどんどん進んで、早くも、聞いた通りになってしまいました。それなのに、私たちは昔のままで何一つ為しとげたこともなく、ただ歳をとるばかりだと嘆かれました。このあたりから車で隅田川まで行き、車は枕橋で返しました。

散りも始めず咲きも残らずという程、花は大そう美しく、遠くから見ると一むらの雲かと思われ、また近くから見渡すと梢に積もる雪かと思われる。人も少ない頃なので花の下を我がもの顔に歩くのは本当に小蝶にでもなった思いです。秋葉神社、白髭神社のあたりを過ぎ梅若塚あたりまで花を探ねました。人が少ないのが嬉しい。帰りに長命寺の桜餅を買い妹に渡す。これは母上への土産。三囲(みめぐり)神社のところで妹と別れる。

吉田かとり子さんの家は、この神社の裏側に高くそびえる三階建てでした。私よりも先に田中みの子さん、小笠原艶子さんがみえていた。いつものように冗談をかわしていると、今日は大学のポートレースがある日で、木の間がくれに漕ぐのが見えるのも嬉しい。双眼鏡で見ると丁度この家の下を漕いで行くようです。赤、白、青、紫など組々で服の色も分け、互いに漕ぎ競うさまはまるで水鳥のように自由です。堤では仲間の人たちでしょう、赤、 白、などと声をはげまして、心配そうにボートと一緒に元気に走っていました。みの子さんが
 「勝てば嬉しいでしょうよ」
とおっしやる。私もまた、
 「負けたらさぞくやしいでしょうよ」
と、嘆息をついて、皆から笑われました。

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