十三夜①

このブログでは、樋口一葉について考えながら、関連する作品を少しずつ読んでいきます。YouTubeの朗読と連動させていく予定でいます。最初の作品は『十三夜』です。『十三夜』は、明治28年9月17日脱稿、この年の12月10日に発行された『文芸倶楽部』第1巻第12編臨時増刊「閨秀小説」に発表されました。

貧しい士族の斉藤主計の娘であるお関は、7年前、官吏の原田勇に望まれて結婚したものの、勇が冷酷無情なのに耐えかね、ある夜、無心に眠る幼い太郎につらい別れを告げて無断で実家に帰ります。

例《いつも》は威勢よき黒ぬり車(1)の、それ門に音が止まつた娘ではないかと両親《ふたおや》に出迎はれつる物を(2)、今宵は辻より飛のりの車(3)さへ帰して悄然《しよんぼり》と格子戸の外に立てば、家内《うち》には父親が相かはらずの高声、

「いはば私《わし》も福人(4)の一人、いづれも柔順《おとな》しい子供を持つて育てるに手は懸らず人には褒められる、分外(5)の慾さへ渇かねば此上に望みもなし、やれやれ有難い事」と物がたられる(6)

あの相手(7)は定めし母様《はゝさん》、ああ何も御存じなしに彼のやうに喜んでお出遊ばす物を、何の顔さげて離縁状もらふて下されと言はれた物か(8)、叱かられるは必定、太郎といふ子もある身にて置いて(9)駆け出して来るまでには種々《いろいろ》思案もし尽しての後なれど、今更にお老人《としより》を驚かして是れまでの喜びを水の泡にさせまする事(10)つらや、寧《いつ》そ話さずに戻ろうか、戻れば太郎の母と言はれて何時何時までも原田(11)の奥様、御両親に奏任《そうにん》(12)の聟《むこ》がある身と自慢させ、私さへ身を節倹《つめ》れば時たまはお口に合ふ者(13)お小遣ひも差あげられるに、思ふままを通して離縁とならは太郎には継母の憂き目を見せ、御両親には今までの自慢の鼻にはかに低くさせまして、人の思はく、弟の行末、ああ此身一つの心から出世の真(14)も止めずはならず、戻らうか、戻らうか、あの鬼のやうな我良人《つま》(15)のもとに戻らうか、彼の鬼の、鬼の良人のもとへ、ええ厭や厭や」

と身をふるはす途端、よろよろとして思はず格子にがたりと音さすれば、誰れだと大きく父親の声、道ゆく悪太郎(16)の悪戯とまがへてなるべし。

朗読は、下の「いちようざんまい」にてどうぞ。




(1)黒漆を塗った高級な人力車。
(2)出迎えられたのに。「物を」は接続助詞「ものを」のあて字。
(3)客待ちしている人力車。
(4)裕福な人、しあわせ者。
(5)身分不相応。
(6)話していらっしゃる。
(7)お父さまのお話の相手。「」内は主人公の心の内。
(8)言えたものか。
(9)子供を置いて。
(10)むだなものにおさせすること。
(11)主人公の夫である原田勇。
(12)明治憲法下の官吏任命形式で、内閣総理大臣の奏薦によって高級官僚として任命されること。
(13)お好きな食べ物。「者」は「物」。
(14)出世のもの。素地。
(15)「つま」は夫婦の一方から他方をいう称で、夫にも妻にも用いられる。
(16)いたずらっ子。江戸、東京語でいたずらをする男の子をののしっていう。


現代語訳=『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出文庫、2008.1、篠原一訳、p.141-143)から

いつもなら威勢のよい黒塗りの人力車で乗りつけて、ほらほら玄関先で車の音がとまった、うちの娘じゃないのかと、両親に出迎えて貰っていた筈だった。しかし、今夜は辻先で飛び乗りの人力車さえかえしてしまって悄然(しょんぼり)と格子戸の前に立っている。

それなのに、家の中で父親が相変わらずのおおきな声で話しているのがひびいてくる。

「云ってみれば俺もしあわせな人間のひとりだな。お関にしても亥之助にしても柔順(おとな)しい子供をもって育てるのに手がかからないのに他人(ひと)さまには褒められる。身の程知らずの欲さえおこさなけりゃこのうえ欲しいというものもない。やれやれ有りがたいことじゃないか」

話している相手はきっと母親だろう。

ああ、何も知らずにあのように喜んでいらっしゃるところへ、どんな顔をして離縁状を貰ってくださいと云えたものだろう。叱られるのは絶対だ。太郎という子供のいる身で、その太郎をおいて嫁ぎ先を駆けだしてくるまでにはいろいろ考えもしたし思いもしつくしてきたけれど、今さらながら年老いた両親をおどろかせてこれまでの喜びをフイにさせてしまうのはつらい。

いっそ話さずに帰ってしまおうか。帰ってしまえば太郎の母とよばれて何時(いつ)いつまでも死ぬまで原田の奥さま。両親にも先ゆきたのしみな頼もしい婿がいる娘と自慢させ、わたしだけが倹約につとめれば時々は口にあうお菓子やお小遣いもさしあげることが出来るのに、我をとおして離縁ということになれば太郎には継母の憂き目をみせ、両親には今までの自慢を急にだいなしにしてしまって、口さがない世間の人のうわさ話や世渡り下手な弟の行く末なども心配になる。ああ、わたしひとりの我が儘(まま)から出世の道をとざすわけにはいかないだろう。帰ろうか、帰ろうか。あの鬼のように非道(ひど)い夫のもとに帰ろうか。あの鬼の、鬼の夫のいる家へ・・・・・・。

いやいや、と頭を振った途端、思わずよろけ、格子戸にがたりと音をたてさせてしまった。すると、誰だ、と父親がおおきな声で訊ねてくる。通りすがりの悪童のいたずらと間違えているのだ。

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