雪の日②

珠は、幼いころから小学校の桂木一郎先生に可愛がられ、なんのやましさもなく慕っていたが、いつの間にか村中の噂になります。育ての親である伯母は、こうした珠を責め、桂木先生と会うことを厳しく禁じます。

世は誤(あやまり)の世なるかも。無き名とり川、波かけ衣(1)、ぬれにし袖の相手といふは、桂木一郎とて我が通学せし学校の師なり。東京(みやこ)の人なりとて容貌(みめ)うるはしく、心やさしければ生徒なつきて、桂木先生と誰れも褒めしが、下宿は十町ばかり我が家の北に、法正寺と呼ぶ寺の離室(はなれ)を仮(かり)ずみなりけり。幼なきより教へを受くれば、習慣(ならはし)うせがたく我を愛し給ふこと人に越えて、折ふしは我が家をも訪(と)ひ、又下宿にも伴なひて、おもしろき物がたりの中(うち)に、様々教へを含くめつ、さながら妹(いもと)の如くもてなし給へば、同胞(きやうだい)なき身の我れも嬉しく、学校にての肩身も広かりしが、今はた(2)思へば実(げ)に人目には怪しかりけん(3)。よしや二人が心は行水(ゆくみづ)の色なくとも(4)、結(ゆ)ふや嶋田髷(まげ)、これも小児(こども)ならぬに、師は三十(みそぢ)に三つあまり(5)七歳(しとさい)にして(6)と書物の上には学びたるを、忘れ忘られて睦(むつ)みけん愚かさ。

(1)ありもしないことで評判がたち、ぬれ衣を着せられたことを言っている。『古今集』の壬生忠岑の歌「陸奥にありといふなる名取川なき名とりては苦しかりけり(みちのくに名取川という川があるというが、その名のようにありもしない噂を立てられるのは苦しいことだ)」を踏まえて、「無き名とり」に「名取川」をかけ、川の縁語で「波かけ衣」、さらに「ぬれにし袖」を導いている。なお「波かけ衣」には、『新古今集』の藤原道信朝臣の歌に「須磨のあまの波かけ衣よそにのみきくは我が身になりにけるかな(須磨の海人のいつも波に濡れる衣のことをいままで他人事として聞いていたが、我が身のことになってしまい、始終恋に涙している)」
(2)今また。今はまた。
(3)人の目にはさぞかし怪しく見えただろう。
(4)恋情はなくても。『続古今集』の藤原良実の歌に「行水にとどまる色ぞなかりける心のはなはちりつもれども」。
(5)「雪の日」が構想された明治25年には、一葉の師、半井桃水は33歳だった。
(6)『礼記』(内則篇)」の「七年男女、席を同じくせず、食を共にせず」とある。七歳にもなれば男女の別を正しくすべきである、の意。

見る目(7)は人の咎(とが)にして、あるまじき事と思ひながらも、立ちし浮名の消ゆる時なくば、可惜(あたら)白玉の瑕(きず)になりて(8)、その身一生の不幸(ふしあわせ)のみか、あれ見よ、伯母そだてにて投げやりなれば、薄井の娘が不品行(ふしだら)さ、両親(ふたおや)あればあの様(やう)にもならじ物と、云ひたきは人の口ぞかし。思ふも涙は其方(そち)が母、臨終(いまは)の枕に我れを拝がみて、『姉様(ねえさま)お願(ねがひ)は珠が事をと。幽(かす)かに言ひし一言あはれ千万無量の思ひを籠めて、まこと闇路に迷ひぬべき事なるを(9)、引受けし我れ、その甲斐(そのかひ)もなく、世の嗤笑(ものわらひ)に為しも終らば、第一は亡き妹に対し、我が薄井の家名に対し、伯母が身は抑(そ)も何とすべき」と御声ひくゝ四壁(あたり)を憚りて、口数すくなき伯母君が思(おぼ)し合はする(10)ことありてか、しみじみと諭(さと)し給ひき。

(7)ことわざ「見る目かぐ鼻」(世の人たちが、他人の挙動を注意深く観察することをたとえていう)を踏まえている。
(8)「あたら(可惜)」は、「あたらし」の語幹から、惜しくも、残念なことに。「白玉の瑕」は、俗にいう「玉に瑕」(たまたま一つだけあるわずかな欠点)を踏まえるとともに、主人公の「珠」にも掛けている。
(9)子への思いにほだされて心が乱れて成仏もできないだろう、それほどのことを。『後撰集』の藤原兼輔の歌「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(人の親の心は闇ではないけれど、子のことを思う道には、まるで闇のなかにいるように何も見えなくなってただ迷ってしまう)」を踏まえている。
(10)あれこれ考えて、思い当たりなさる。「思ひ合はす」の尊敬語。
我れ初めは一向(ひたすら)夢の様に迷ひて、何ごとゝも思ひ分かざりしが、漸々(やうやう)伯母君の詞(ことば)するどく、「よく聞けよお珠、桂木様は其方(そち)を愛で給ふならん、其方も又慕はしかるべし。されども此処に法(きまり)ありて(11)、我が薄井の家には昔しより他郷の人(12)と縁を組まず。況(まし)てや如何に学問は長じ給ふとも(13)、桂木様は何者の子、何者の種とも(14)知らぬを、門閥家(いゑがら)(15)なる我が薄井の聟とも言ひがたく、嫁にも遣(や)りがたし。よし恋にても然(し)かぞかし(16)無き名なりせば(17)猶(なほ)さらのこと、今よりは構へて(18)往来(ゆきき)もし給ふな、稽古もいらぬ事なり。其方(そち)大切なればこそお師匠様と追従(ついしよう)もしたれ、益(えき)も無き他人(ひと)を珍重(めづる)には非(あ)らず。年来(としごろ)美事に育だて上げて、人にも褒められ、我れも誇りし物を、口惜しき濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)きせられしは彼(か)の人ゆゑなり。今までは今までとして、以来(これより)は断然(ふつつり)と行ひを改ため、其方(そち)が名をも雪(そそ)ぎ(19)、我が心をも安めくれよ。兎角(とかく)に其方が仇はあの人なれば、家を思ひ伯母を思はゞ、桂木とも思(おぼ)すな、一郎とも思すな、彼の門(かど)すぎるとも寄り給ふな」と畳みかけて仰(おほ)する時、我が腸(はらわた)は断ゆるばかりになりて、何の涙ぞ睚(まぶた)に堪(こら)へがたく、袖につゝみて音(ね)に泣きしや幾時(いくとき)。

(11)わが家にはわが家のしきたりがあって。
(12)他国のひと。よそもの。
(13)すぐれておられようとも。
(14)どこのどんなかたか。
(15)家柄のよい家。
(16)たとえ本当に恋していたとしてもどうしようもない(まして)。
(17)事実無根であれば。
(18)(後に打消しの語を伴い)けっして。
(19)おまえの汚名(桂木との浮名)も洗いきよめて。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 闇桜・ゆく雲他』(河出書房新社、1997.2)[訳・山本昌代]から

世は誤りの世か、 なき名とり川波かけ衣、ぬれにし袖の相手というのは、桂木一郎という、私の通う学校の師だった。東京の人とて容貌(みめ)うるわしく、心やさしいため生徒らがなつき、桂木先生と誰もが褒めた。十町ばかり我が家の北にある法正寺と呼ぶ寺の離れに仮住まいされていた。幼い頃から教えを受ければ、習慣(ならわし) 失せがたく、他の生徒より私を愛し給い、折ふしは我が家をも訪れ、また私を下宿にも伴なって、おもしろい物がたりの中にさまざまな教えを含めながら、さながら妺のようにもてなし給えば、きようだいのない身の私も嬉しく、学校での肩身も広かったが、今にして思えば、人目には怪しくうつったであろう。たとえ二人の心に行く水の色はなくとも、嶋田に結った私はもう小児(こども)ではなく、師は三十に三つあまり、男女七歳にしてと書物の上には学んだものを、忘れ忘られて親しんだ愚かさよ。

世間の目は人のあやまちを捜したがる、 あるまじきことと思いながらも、立った浮き名の消える時なければ、あたら白玉の瑕となり、その身一生の不幸のみか、あれ見よ伯母育ちで投げやりだからこそ、薄井の娘の不品行(ふしだら)さ、両親があればあのようにはならぬものを、といいたいのは人のロだろう。 思うも涙は、お前の母が臨終(いまわ)の枕に私を拝んで、「姉様、 お願いは珠のことを」と幽かにいった一言にあわれ千万無量の思いを籠めて、成仏もできず闇路を迷うべきものを、引き受けた私が甲斐もなく世の嗤笑(ものわら)いになし終れば、第一は亡き妺に対し、我が薄井の家名に対し、伯母であるこの身はそも何とすべきか。 とおん声低く四壁(あたり)を憚って、ロ数少ない伯母君が思い合わせることあってか、しみじみと諭し給うた。私は初めひたすら夢のように心迷い、何ごととも分別もわかなかったけれど 、次第に伯母君の詞(ことば)鋭く、

「よく聞けよ、お珠、 桂木様はお前を愛しみ給うのであろう、お前もまたお慕いしているのだろう。けれどここに法(きまり)あって、我が薄井の家には、昔より他郷の人と縁を組まず、ましてやいかに学問は長じ給うといえど、 桂木様は何者の子誰の種とも知らぬものを、門閥家(いえがら)なる我が薄井の聟ともしいいがたく、嫁にも遣りがたい。たとえ恋仲であったとて同じこと、 浮き名に過ぎねばなおさら、今よりは決して往来してはなりませぬ。 稽古もいらぬこと。お前が大切なればこそ、お師匠さまと追従もしてきたが、益もない他人を珍重するには及ばない。長い間見事に育て上げ、人にも褒められ私も誇りにしてきたものを、 ロ階(くちお)しい濡衣を着せられたのはかの人ゆえ。 今までは今までとして、 以来(これより)はふっつりと行いを改め、 お前の名をも雪(すす)ぎ、我が心をも安めておくれ。とにかくお前の仇(あだ)はかの人なのだから、家を思い伯母を思えば、桂木とも思(おぼ)すな一郎とも思すな、かの門過ぎるとも寄ってはなりませぬ」
と畳みかけて仰(おっしゃ)る時、我が腸は断ゆるばかりになり、何の涙か睚(まぶた)に堪えがたく、袖に顔をつつんで声を上げて泣いたのは幾時ばかりか。

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