闇桜⑥

 「闇桜」も、いよいよエンディング。夕やみ時、「お詫びは明日」という千代の言葉がはかなく聞こえ、軒端の桜がほろほろとこぼれます。

「良《りやう》さん、今朝の指輪はめて下さいましたか」
と云ふ声の細さよ。答へは胸にせまりて口にのぼらず、無言にさし出す左の手を引き寄せて、じつとばかり眺めしが、
妾《わらは》(1)と思つて下さい」
と云ひもあへず、ほろほろとこぼす涙そのまゝ枕に俯伏《うつぶ》しぬ。
「千代《ちい》ちやん、ひどく不快《わるく》でもなつたのかい。福や、薬を飲ましてくれないか。どうした、大変顔色《かほいろ》がわろくなつて来た、おばさん鳥渡《ちよつと》」
と良之助が声に驚《おど》かされて、次の間《ま》に祈念《きねん》をこらせし母も、水初穂《みづはつほ》(2)取りに流し元へ立ちしお福も狼狽敷《あはたゞしく》枕元にあつまれば、お千代閉《と》ぢたる目を開らき、
「良さんは」
「良さんはお前の枕元に、そら右の方においでなさるよ」
「阿母《おつか》さん、良さんにお帰へりを願つて下さい」
「なぜですか、僕がゐては不都合ですか。ヱゐてもわるひことはあるまい」
「福や、お前から良さんにお帰へりを願つておくれ」
「貴嬢《あなた》は何をおつしやいます。今まであれ程お待遊《まちあそ》ばしたのに又そんなことを。ヱお心持《こゝろもち》がおわるひのならお薬をめしあがれ。阿母《おつか》さまですか、阿母さまはうしろに」
「こゝにゐるよ、お千代や阿母さんだよ、いゝかへ、解《わか》つたかへ、お父《とつ》さんもお呼申《よびまを》したよ、サアしつかりして薬を一口《ひとくち》おあがり。ヱ胸がくるしい、アヽさうだらう、このマア汗を。福や、いそいでお医者様へ。お父《とつ》さん、そこに立つて入らつしやらないで、どうかしてやつて下《く》ださい。良さん、鳥渡《ちよつと》その手拭《てぬぐひ》を。何だと。ヱ良さんに失礼だがお帰へり遊ばしていたゞきたいと、あゝさう申すよ。良さんおきゝの通《とほり》ですから」
とあはれや母は身も狂《きやう》するばかり。
娘は一語一語呼吸せまりて、見る見る顔色青み行くは、露の玉の緒《を》(3)今宵《こよひ》はよも(4)と思ふに、良之助起《た》つべき心はさらにもなけれど(5)、臨終《いまは》に迄《まで》も心づかひさせんことのいとをしくて、屏風《べうぶ》の外《ほか》に二足《ふたあし》ばかり。糸より細き声に、「良さん」と呼び止められて、「何《なに》ぞ」と振り返へれば、
「お詫《わび》は明日《みやうにち》」
風もなき軒端《のきば》の桜ほろほろとこぼれて、夕やみの空鐘《かね》の音《ね》かなし。
(1)女性がへりくだって自分をいう、一人称の人代名詞。近世では、特に武家の女性が用いた。もともと、童(わらわ)のような未熟者、幼稚な者の意で謙称として用いられた。
(2)神仏に供えるため、火打石を打ち鳴らした切火で清めた水。
(3)露のように、はかなく消えやすいいのち。
(4)今夜はよもやもつまい。「よも」は、確定的ではないが、そうしたことはまさかあるまいという予測を表わす副詞。まさか。よもや。打消推量の助動詞「じ」「まじ」などを伴って、「万が一にも…ないだろう」という意になるが、ここでは略されている。
(5)まったくないけれど。「さら」は、まったく、まるでの意の副詞。新古今集の能因法師の歌に「山里の春の夕暮れきてみれば入相の鐘に花ぞ散りける」。一葉自身も「風もなき軒ばの桜ほろほろと散るかと見れば暮れそめにけり」という歌を作っている。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 闇桜・ゆく雲他』(河出書房新社、1997.2)[訳・山本昌代]から

「良さん、今朝の指輪、 はめて下さいましたか」

という声の細さよ。答えは胸に詰まって口を出ず、無言のままさし出す左の手を引き寄せて、じっとみつめれば、
「私と思って下さい」
声にもならず、 ほろほろとこぼす涙をそのままに枕に俯伏した。
「千代ちゃん、 ひどく不快(わる)くでもなったのかい。福や、薬を飲ましてくれないか。どうした、大層顔色が悪くなってきた。おばさん、ちょっと来て下さい」
良之助の声に驚かされて、次の間で祈念をこらしていた母も、水初穂(みずはつほ)を取りに流し元へ立っていたお福も、狼狽(あわただ)しく枕元に集れば、 お千代は閉じた目を開いて、
「良さんは」
「良さんはお前の枕元に、そら、右の方においでなさるよ」
「お母さん、良さんにお帰りを願って下さい」
「なぜです、僕がいては不都合ですか。居ても悪いことはあるまい 」
「福や、 お前から良さんにお帰りを願っておくれ」
「あなたは何をおっしゃいます。今まであれほどお待ち遊ばしたのに、またそんなことを。お心持ちがお悪いのならお薬をめしあがれ。お母様ですか、 お母様は後ろに」
「ここに居るよ、 お千代や。お母さんだよ。 いいかい、わかったかい。 お父さんもお呼び申したよ。さあ、しっかりして薬を一口おあがり。え、胸が苦し い、ああ、 そうだろう、このマア、汗を、福や、急いでお医者様へ。お父さん、そこ に立っていらっしゃらないで、どうかしてやって下さい 。良さん、ちょっとその手拭いを。何だい、え、 良さんに失礼ですがお帰り遊ばしていただきたいと、ああ、そう申すよ。良さん、お聞きの通りですから」
哀れにも母は身も狂するばかり。娘は一言ごとに呼吸もせまり、見る見る顔色の蒼ざめていくさま、露の玉の緒、今宵はよもやと思うにつけ、良之助は起つ気はさらにないものの、臨終(いまわ)の際までも心遣いをさせることの不憫さに、屏風の外に二タ足ばかり踏み出す。と、糸より細い声で「良さん」と呼びとめられ、 「何だい」と振り向けば、
「お詫びは明日」
風もない軒端の桜がほろほろとこぼれ、タやみの空に鐘が鳴る。

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