闇桜⑤

きょうから「下」。良之助は、床に臥してやつれた千代を抱き起します。

     下

「千代《ちい》ちやん、今日は少し快《よ》い方《はう》かへ」
と二枚折《まいをり》の屏風《べうぶ》押し明けて枕もとへ坐る良之助に、乱だせし姿恥かしく、起きかへらんとつく手《て》もいたく(1)痩《や》せたり。
「寝てゐなくてはいけない。なんの病中に失礼も何もあつたものぢやアない。それとも少し起きて見る気なら、僕に寄りかゝつてゐるがいゝ」
と抱《いだ》き起せば、居直《ゐなほ》つて(2)
「良さん、学校が御試験中《ごしけんちう》だと申すではございませんか」
「アヽさう」
「それに妾《わたし》の処《ところ》へばつかし来てゐらしやつてよろしいんですか」
「そんな事まで気にするには及ばない、病気の為《ため》にわるいから」
「だつて、どうもすみませんもの」
「すむのすまないのとそんなこと気にするより、一日も早く癒《よ》くなつてくれるがいゝ」
「御親切に有難《ありがた》うございます。ですが、今度は所詮《しよせん》癒《なほ》るまいと思ひます」
「又《また》馬鹿なことを云ふよ。そんな弱い気だから病気がいつまでも癒りやアしない。君が心細ひ事を云つて見たまへ、御父《おとつ》さんやお母《つか》さんがどんなに心配するか知れません。孝行な君にも似合はない」
「でも癒《よ》くなる筈《はず》がありませんもの」
果敢《はか》なげに(3)云ひて、打ちまもる(4)睫《まぶた》に涙は溢《あふ》れたり。「馬鹿な事を」と口には云へど、むづかしかるべしとは十指《じつし》のさす処《ところ》(5)。あはれや一日《ひとひ》ばかりの程に痩《や》せも痩せたり、片靨《かたゑくぼ》あいらしかりし頬《ほう》の肉いたく落ちて、白きおもてはいとゞ(6)透き通る程に、散りかかる幾筋《いくすぢ》の黒髪、緑は元の緑(7)ながら油《あぶら》けもなきいたいたしさよ。

(1)たいそう。非常に。ひどく。
(2)いずまいを正して。
(3)力なげに、弱々しく。
(4)じっと見詰める。「うち」は接頭語。
(5)『礼記』(大学)の「十目の視 (み) る所、十手の指す所、其れ厳なるかな」から、だれもが認めるところ、多くの人が正しいとすることがら。
(6)ますます。いよいよ。いっそう。
(7)黒くて、つやのある頭髪を、緑の髪、あるいは緑の黒髪という。

我ならぬ人(8)見るとても、誰《たれ》かは腸《はらわた》断えざらん(9)限《か》ぎりなき心のみだれ、忍草《しのぶぐさ》(10)小紋《こもん》のなへたる(11)衣《きぬ》きて、薄くれなゐのしごき帯《おび》(12)前に結びたる姿、今幾日《いくひ》見らるべきものぞ。年頃《としごろ》日頃《ひごろ》(13)片時《かたとき》はなるゝ間《ひま》なく睦《むつ》み合ひし中《うち》に、など底の心(14)知れざりけん、少《ちい》さき胸に今日までの物思ひはそも幾何《いくばく》ぞ。昨日《きのふ》の夕暮お福(15)が涙ながら語るを聞けば、熱つよき時はたえず我名《わがな》を呼びたりとか。病《やまい》の元はお前様と云はるゝも道理なり。知らざりし我《われ》恨めしく、もらさぬ君も恨めしく、今朝《けさ》見舞ひしとき痩せてゆるびし(16)指輪ぬき取りて、これ形見とも見給はゞ、嬉《うれ》しとて心細げに打ち笑《ゑ》みたるその心、今少し早く知らばかくまでには衰へさせじを」と我罪《わがつみ》恐ろしく打《うち》まもれば、

(8)「我」は良之助を指し、良之助ではない人のことをいう。
(9) 悲しみに激しく心が痛まない者があるだろうか。「腸を断つ」は、断腸の思いをする。
(10)「心のみだれを堪え忍ぶ」と「忍草」との掛詞。古今集の源融の歌に「みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに(陸奥のしのぶもじずりの乱れ模様のように、心が乱れようと思う私ではないのに)」
(11)衣服が着なれて柔らかくなった。千代の心情を象徴している。
(12)女性が、身長に合わせて着物をはしょり上げるのに用いる帯。一幅の布を適当の長さに切り、そのまましごいて用いる。抱え帯。
(13)これまでずっと。長いあいだ。常日ごろ。
(14)心の奥底。本心。
(15)千代の家の女中の名。「われから」にも「仲働きの福」が登場する。
(16)ゆるくなった。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 闇桜・ゆく雲他』(河出書房新社、1997.2)[訳・山本昌代]から

「千代ちゃん、今日は少し快い方かい」
二枚折の屏風を押し明けて、枕元へ坐る良之助に、寝乱れた姿を見せるのが恥ずかしく、起き上がろうとつく千代の手もひどく痩せた。
「寝ていなくてはいけない。何の、病気の時に失礼も何もあったものじゃない。それとも少し起きてみる気なら、僕に寄りかかっているがいい」
と抱き起こすと、居ずまいを正して、
「良さん、学校が試験中だというではありませんか」
「ああ、そうだよ」
「それなのに、私のところへばかり来ていらっしゃってよろしいのですか」
「そんなことまで気にすることはない。病気のために悪いから」
「だって、すみませんもの」
「すむのすまないのと、そんなことを気にするより一日も早く癒(よ)くなってくれる方がいい」
「ご親切にありがとうございます。でも、今度は所詮癒るまいと思います」
「また、馬鹿なことをいうよ。そんな弱い気持ちだから、病気がいつまでも癒りゃしない。君が心細いことをいってみ給え。お父さんやお母さんがどんなに心配するか知れない。孝行な君にも似合わない」
「でも、癒くなるはすがありませんもの」
と果敢(はか)なげにいって、良之助をみつめる睫(まぶた)に涙が溢れている。
「馬鹿なことを」とロではいいながら、むずかしかろうとは誰ものいうところだ。哀れにも 一日ほどの間にげっそり痩せてしまった。片えくぼの愛らしかった頬の肉はひどく落ち、色白の面はいっそう透き通るように、散りかかるいく筋の黒髪も、緑はもとの緑だが、油けもなくいたいたしい。僕でない人が見ても断腸の思いに捉われようと、限りなく心が乱れる。

忍草の小紋のなえた衣を着て、薄くれないのしごき帯を前に結んだ姿を、あといく日見られることか。年頃日頃、片時はなれる間なく親しんできたものを、なぜ奧の心を知らなかったのだろう。小さい胸に今日までのもの思いはいったいどれはどであろう。昨日の夕暮れ、お福が涙ながら語るのを聞けば、熱の高い時は絶えす我名を呼んでいたとか。病の元はお前様、といわれるのももっとも。 知らずにいた自分が恨めしく、心の内を洩らさない君も恨めしい。今朝見舞った時、痩せてゆるくなった指輪を抜きとって、「これを形見と思って下されば嬉しい」と心細げに徴笑んだその心を、もう少し早く知っていれば、こうまでは衰えさせなかったものを、と我罪を恐ろしく思い、千代を見守れば、

コメント

人気の投稿