闇桜④

うちあける勇気を持てないままに、忍ぶ恋の辛さに悩む千代。恥ずかしさと恨めしさに良之助に顔を見せることなく、ひとり悲しみと苦しさにうち沈みます。

昼は手ずさび(1)の針仕事にみだれ、その乱るゝ心縫《ぬ》ひとゞめて、「今は何事も思はじ、思ひてなるべき恋かあらぬか、云ひ出して爪《つま》はじきされなん恥かしさには、再び合す顔もあらじ。妹《いもと》と思《おぼ》せばこそ、隔てもなく愛し給ふなれ。終《つひ》のよるべ(2)と定めんに、いかなる人をとか望み給ふらん。そは又《また》道理なり、君様《きみさま》が妻と呼ばれん人、姿は天《あめ》が下の美を尽して、糸竹《いとたけ》(3)文芸備はりたるをこそならべて見たしと我すら思ふに、御自身は尚《なほ》なるべし。及ぶまじきこと打出《うちだ》して(4)、年頃の中うとくもならば何《なに》とせん、それこそは悲しかるべきを。思ふまじまじ、他《あだ》し心(5)なく兄様《あにさま》と親しまんに、よも憎みはし給はじ。よそながらも優しきお詞《ことば》きくばかりがせめてもぞ」といさぎよく断念《あきら》めながら、聞かず顔(6)の涙頬《ほゝ》につたひて、思案のより糸あとに戻《も》どりぬ(7)

(1)手なぐさみ。
(2)終生の心のよりどころ。ここでは生涯の伴侶たる妻。
(3)「糸」は琴、三味線などの弦楽器、「竹」は笛などの管楽器で、楽器の総称。
(4)言い出して。
(5)徒(あだ)し心。浮気な心。ここでは良之助への恋心。
(6)聞こえない顔つき、知らぬふり。良之助の言葉を聞いて知らんぷりしようとしても流れる涙。
(7)せっかくの思案がもとに戻ってしまう。思案を撚る(凝らす)と撚糸(よりいと)の掛詞。

「さりとては、そのおやさしきが恨みぞかし。一向《ひたすら》につらからば(8)さてもやまんを、忘られぬは我身の罪か人の咎《とが》か、思へば憎きは君様なり。お声聞くもいや御姿見るもいや、見れば聞けば、増さる思ひによしなき(9)胸をもこがすなる。勿体《もつたい》なけれど何事まれ(10)、お腹立《はらだ》ちて足踏《あしぶみ》ふつに(11)なさらずは、我れも更《さ》らに参るまじ。願ふもつらけれど、火水《ひみづ》ほど仲わろくならば、なかなかに心安かるべし。よし今日《けふ》よりはお目にもかゝらじ、ものもいはじ、お気に障らばそれが本望ぞ」とて膝《ひざ》につきつめし曲尺《ものさし》ゆるめると(12)共に、隣の声をその人と聞けば決心ゆらゆらとして、今までは何を思ひつる身ぞ、逢《あ》ひたしの心一途《いちづ》になりぬ。さりながら心は心の外《ほか》に友もなくて(13)、良之助が目に映るもの何の色もあらず(14)。愛らしと思ふ外一点のにごりなければ、我《わが》恋ふ人世《よ》にありとも知らず、知らねば憂きを分ちもせず(15)。面白《おもしろ》きこと面白げなる男心の淡泊《たんぱく》なるにさしむかひては、何事のいはるべき。後世《のちのよ》つれなく我身うらめしく、春はいづこぞ、花とも云はで垣根の若草おもひにもえぬ(16)
(8)相手が自分につらくあたる、薄情である。
(9)無益な。かいのない。
(10)何事にもあれ。
(11)(否定の語を伴って) まったく。全然。
(12)膝に突き立てた曲尺がゆるむと、決心が鈍るといっている。
(13)千代の恋心は千代だけのもので。
(14)「色」は色恋のこと。恋情のかげは少しもない。
(15)千代が恋い慕っているいるのを知らないので、苦しみを分けあって持つこともできない。
(16)春はまづ東路よりぞ若草の言の葉つげよ武蔵野の原(古今六帖五)「花とも云はで」は、春なら花も咲こうものを、千代の恋心はうちに閉じこもったままで遂げられることもなく。「もえぬ」は、若草が萌えると思いに燃えるを掛けている。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ



《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 闇桜・ゆく雲他』(河出書房新社、1997.2)[訳・山本昌代]から

昼は手すさびの針仕事をしながら心が乱れ、その乱れる心を縫いとどめて・・・・・・今は何も思うまい。思ってかなう恋かどうか。いい出して爪はじきをされたら、恥ずかしさに再び会わす顔もないだろう。妺と思われればこそ隔てもなく愛(いつく)しんで下さるものを。生涯のご伴侶にはどのような女人(ひと)を望まれるのか。それはまた道理、あなた様の妻と呼ばれる人はこの世の美の限りを尽し、音楽文芸にも秀でた人をこそ並べてみたい、と私ですら思うのだから、ご自身はなおさらであろう。かなわぬことを口にして、長年の仲が疎くなったらどうしよう。それこそ悲しいことだろう。思うまい、思うまい。 他の心なく兄様と親しめは、まさか憎みはなさるまい。よそながらも優しいお言葉を聞くはかりがせめてもと、潔く断念(あきら)めながら、そ知らぬ顔を装う頬に涙が伝い、思いはあとへ戻ってしまう。

そうはいっても、そのおやさしさが恨みではある。 一向(ひたすら)につらくあたるなら、思いも止むものを、忘れられないのは私の罪か、彼の人の罪か。思えば憎きはあなた様。お声を聞くのもいや、お姿を見るのもいや。見れば、聞けば、増さる思いに甲斐もな い胸を焦す。

もったいないことではあるけれど、何でもいいからお腹立ちになり、こちらへ見えることがふっつりなくなれば、私も決して参るまい。願うのもつらいが、火と水ほど仲が悪くもなれば、かえって気楽であろう。よし、今日からはお目にもかからない、ものもいうまい、お気に障(さわ)ればそれが本望と、膝につきつめた曲尺(ものさし)をゆるめると共に、隣から聞こえる声をその人と知れば、決心もゆらゆらとして、たった今まで何を思っていたのやら、逢いたいという心が一途になる。

けれど心は心の外に友もなく、良之助の目にも千代の心は映らず、愛(いと)しいと思う外、一点の濁りもないために、自分を恋う人の世にあるとも知らない。知らなければ千代と憂鬱を分かち合うこともない。晴れやかにさっぱりとした様子の男心にさし向かい、何といえはいいのか。将来のこともままならず、我身かなしく、春はどこにか、思いは花とも開かず、垣根の若草が芽生えている。

コメント

人気の投稿