闇桜③

きょうから「中」。良之助への恋を自覚した千代ですが、それを打ち明ける勇気を持てないまま、忍ぶ恋の辛さに悩みます。

     中

昨日《きのふ》は何方《いづかた》に宿りつる心とてか、はかなく動き初《そ》めては、中々にえも止まらず(1)、あやしや迷ふぬば玉の(2)闇、色なき声さへ身にしみて、思ひ出づるに身もふるはれぬ。その人恋しくなると共に、恥かしくつゝましく恐ろしく、「かく云はゞ笑はれん、かく振舞《ふるま》はゞ厭《いと》はれん」と仮初《かりそめ》の返答《いらへ》(3)さへはかばかしく(4)は云ひも得せず、ひねる畳の(5)塵《ちり》よりぞ、山ともつもる思ひの数々。「逢《あ》ひたし見たし」など陽《あら》はに(6)云ひし昨日の心は浅かりける、我が心我《われ》と咎《とが》むれば(7)、お隣とも云はず、良様《りやうさま》とも云はず、云はねばこそくるしけれ。涙しなくば(8)と云ひけんから衣、胸のあたりの燃ゆべく覚えて、夜《よる》はすがらに(9)眠られず、思《おもひ》に疲れて(10)とろとろとすれば、夢にも見ゆるその人の面影《おもかげ》、優しき手に背《そびら》を撫《な》でつゝ、「何を思ひ給ふぞ」とさしのぞかれ、君様《きみさま》ゆゑと、口元《くちもと》まで現《うつゝ》の折の心ならひに(11)、いひもいでずしてうつむけば、「隠し給ふは隔てがまし。大方《おほかた》は見て知りぬ、誰《た》れゆゑの恋ぞ、うら山し」と憎くや知らず顔《がほ》のかこち言《ごと》(12)。「余《よ》の人恋ふるほどならば思ひに身の痩《や》せもせじ、御覧ぜよや」とさし出す手を軽《かろ》く押へてにこやかに、「さらば誰《たれ》を」と問はるゝに答へんとすれば、暁の鐘枕《まくら》にひびきて覚むる外《ほか》なき思《おも》ひ寐《ね》の夢《ゆめ》。鳥がねつらき(13)きぬぎぬ(14)の空のみかは、惜しかりし名残《なごり》に心地常《つね》ならず。「今朝《けさ》は何とせしぞ。顔色わろし」と尋ぬる母はその事さらに(15)知るべきならねど、面《かほ》赤《あから》むも心苦《こゝろぐる》し。

(1)「はかなく」は、頼りなく心細い。「中々に」は、たやすくは、容易には。良之助に対する恋に目覚めた千代の心は頼りなくゆらぎはじめて、たやすく静めることができない。
(2)ぬばたま(ヒオウギの実)のように黒い意から、「黒」「夜」「夕」「宵」「髪」などにかかる枕詞。
(3)その時かぎりのちょっとした返事。
(4)はきはきして。てきぱきして。
(5)もじもじと畳のけばをむしる。
(6)はっきりと。公然と。
(7)自分の心が自身を責めるので。
(8)古今集の紀貫之の歌「君こふる涙しなくは唐衣むねのあたりは色もえなまし」(あなたを恋しく思って流す涙がなかったら、衣の胸のあたりは、真っ赤に燃えてしまうでしょう)をふまえている。
(9)夜どおし。「すがらに」は、初めから終わりまで通すこと。
(10)古今集の小野小町の歌に「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを」(あの人を思いつづけて見た夢だから、あの人が見えたのだろうか、夢だと知っていれば目覚めずにいたろうに)がある。
(11)目覚めているときの習慣の通りに。
(12)わざと知らぬ顔でうらみ嘆く。
(13)「恋ひ恋ひてまれに逢ふ夜のあかつきは鳥の音つらきものにざりける」(古今六帖)をふまえている。 
(14)男女が共寝をして過ごした翌朝。その朝の別れ。
(15)千代が良之助を慕っていることは、いっこうに。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ


《現代語訳例》『現代語訳・樋口一葉 闇桜・ゆく雲他』(河出書房新社、1997.2)[訳・山本昌代]から

昨日はどこにあった心か、かすかに動き初めてはなかなかに止まらす、不思議にも迷うぬば玉の闇、何気ない声さえ身に沁みて、思い出せば身もふるえる。その人を恋しくなると共に、恥ずかしくつつましく恐ろしく、 こういえは笑われようか、 こう振舞えば厭われるかと、仮初(かりそめ)の答えすら満足にはできず、畳をひねってその塵の山と積るように、あれこれと思いがつのる。 「逢いたい、見たい」と露わにロにした昨日の心は浅かったと、自分の心が咎められ、お隣ともいわず、良様ともいわず、 いわないからこそくるしいのだ。涙しなくばと古歌に歌われたように、胸のあたりが燃えるように思われて、夜通し眠られず、思いに疲れてまどろめば、夢にも見るその人の面影。優しい手で背を撫でながら「何を思っているの」とさしのぞかれ、「あなた様ゆえ」と口元まで出かかりながら、現(うつつ)の時のならいに いい出せもせす俯けは、「隠すとは他人行儀な。大方は見ればわかる。誰かに恋しているのだろう。その男がうらやまし い」と憎らしや、知らず顔のうらみ言。 「他の人を恋うるほどならば、思いに身も痩せはいたしません。ご覧なさい」とさし出す手を軽く押さえてにこやかに「それなら誰を」と問われるのに答えようとすれば、暁の鐘が枕に響き、覚める外ない思い寝の夢と知る。朝告げ鳥の声のつらいのは、別れの朝だけではない。名残り惜しさに心地は常のようでなく、 「今朝はどうしたの、顔色が悪いよ」と尋ねる母は何も知るはずはないのに、顔の赤らむのも心苦しい 。

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