わかれ道⑥

「わかれ道」もいよいよエンディング。悲痛な吉三の別離の心境が吐露されます。

いつしか傘屋の路次《ろじ》を入《い》つてお京が例の窓下《まどした》に立てば、
「此處《こゝ》をば毎夜音《おと》づれてくれたのなれど、明日《あす》の晩はもうお前の声も聞かれない。世の中つて厭《い》やなものだね」
と歎息するに、
それ(1)はお前の心がら(2)だ」
とて不満らしう吉三の言ひぬ。
お京は家《うち》に入《い》るより(3)洋燈《らんぷ》に火を点《うつ》して、火鉢《ひばち》を掻《か》きおこし(4)
「吉ちやんや、お焙《あた》りよ」
と声をかけるに、
「己《お》れは厭《い》やだ」
と言つて柱際《はしらぎは》に立つてゐる(5)を、
「それでもお前、寒からうではないか、風を引くといけない」
と気を付ければ、
「引いてもいいやね。構《かま》はずに置いておくれ」
下を向いてゐる(6)に、
「お前はどうかおしか。何だか可笑《をか》しな様子だね、私の言ふ事が何か疳《かん》にでも障つたの。それならそのやうに(7)言つてくれたがいい。黙つてそんな顔をしてゐられると気になつて仕方がない」
と言へば、
「気になんぞ懸《か》けなくてもいいよ。己《お》れも傘屋の吉三だ、女のお世話にはならない」と言つて、寄《より》かかりし柱に背を擦《こす》りながら(8)

(1)「世の中つて厭やなもの」と歎息することを指している。
(2)心がけが原因で生じた結果。
(3)…とすぐに。それにすぐ続いて。
(4)いつもの通り吉三に心づかいをする。
(5)お京の言葉にショックを受けて、吉三は部屋に入ろうともしない。
(6)しょげ切った様子が表現されている。
(7)はっきり憤慨したと。
(8)吉三のやるせない気持ちをこう表している。

「あゝ詰《つま》らない、面白くない、己《お》れは本当に何と言ふのだらう、いろいろの人が鳥渡《ちよつと》好《い》い顔を見せて直様《すぐさま》つまらない事になつてしまふのだ。傘屋の先《せん》のお老婆《ばあ》さんもいい人であつたし、紺屋《こうや》(9)のお絹さんといふ縮《ちゞ》れつ毛《け》の人も可愛《かあゆ》がつてくれたのだけれど、お老婆《ばあ》さんは中風《ちゆうふう》で死ぬし、お絹さんはお嫁に行くを嫌《い》やがつて裏の井戸へ飛込んでしまつた。お前は不人情で己れを捨てゝ行くし、もう何も彼《か》もつまらない。何《なん》だ傘屋の油ひきなんぞ、百人前《ひやくにんまへ》の仕事をしたからとつて褒美《はうび》の一つも出やうではなし、朝から晩まで一寸法師の言はれつゞけで、それだからと言つて、一生たつても(10)この背《せい》が延びやうかい。待てば甘露《かんろ》(11)といふけれど、己れなんぞは一日一日嫌やな事ばかり降つて来やがる(12)。一昨日《をとゝひ》半次の奴《やつ》と大喧嘩《おほげんくわ》をやつて、お京さんばかりは人の妾《めかけ》に出るやうな腸《はらわた》の腐つたのではないと威張《ゐば》つたに、五日とたゝずに兜《かぶと》をぬがなければ(13)ならないのであらう。そんな嘘《うそ》つ吐《つ》きの、ごまかしの、欲の深いお前さんを姉《ねえ》さん同様に思つてゐたが口惜《くちを》しい。もうお京さん、お前には逢《あ》はないよ、どうしてもお前には逢はないよ。長々《ながなが》御世話さま、此處《こゝ》からお礼を申します。人をつけ(14)、もう誰れの事も当てにする物か、左様《さやう》なら」
と言つて立《たち》あがり、沓《くつ》ぬぎの草履《ざうり》下駄《げた》足に引《ひき》かくるを、
(9)染物を業とする家。もとは藍染屋をいったが、広く染物屋をいうようになった。
(10)いくつになっても。一生涯。
(11)「甘露」は中国の伝説で王者の仁政に感じて天が降らせる甘味の液のこと。待っていれば、甘露が降ってくるような日和もある。あせらずにじっくりと待っていれば、いずれよい機会がめぐってくる。
(12)前述の(甘露が降る、に応じて)、甘露は降らないで、いやなことばかり降る、といっている。
(13)降参しなければ。
(14)人をばかにするのもいいかげんにしろ。相手をののしる言葉。「人をうつけにする」に拠るのか。

「あれ吉ちやん、それはお前勘違《かんちが》ひだ。何も私が此処《こゝ》を離れるとて、お前を見捨てる事はしない。私はほんとに兄弟とばかり思ふのだもの、そんな愛想《あいそ》づかし(15)は酷《ひど》からう」と後《うしろ》から羽《は》がひじめ(16)に抱き止めて、
「気の早い子だね」
とお京の諭《さと》せば、
「そんなら、お妾《めかけ》に行くを廃《や》めにしなさるか」
と振《ふり》かへられて、
「誰れも願ふて行く処《ところ》ではないけれど、私はどうしてもかうと決心してゐるのだから、それは折角《せつかく》だけれど聞かれないよ」
と言ふに、吉《きち》は涕《なみだ》の目に見つめて、
「お京さん、後生だから(17)此肩《こゝ》の手を放しておくんなさい」
(15)相手に対して好意や愛情をなくすこと。
(16)背後から相手の腋の下に通した両手を、首の後ろで組み合わせ、動けないようにすること。
(17)お願いだから。吉三の悲痛な別れの心境が吐露される。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。






《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2008.1)[訳・阿部和重]から

いつしか傘屋の路地を入り、お京の部屋のいつもの窓下に立つと、「ここへ毎晩訪ねてくれたわね、だけど明日の晩はもうあんたの声も聞けない。世の中ってやなもんね」
お京はそう言ってため息をつく。
「それはあなたの気持ち次第だと思うけど」
不満そうに吉三は言う。
お京は部屋に入るとランプに火をともし、火鉢を掻きおこして、
「吉ちゃん、あたりなよ」と声をかけるが、
「結構」と吉三は柱際に立ったままでいる。
「寒いし、風邪ひくから」と気遣っても、
「ひくといいね。構うことない」と下を向く 。
「あんたどうかした? 何だかおかしいわね。私に腹立ててるの? それなら 
はっきり言って。黙ってそんな顔をしていられると気になって仕方かない」
「気にしないでくれ、俺も傘屋の吉三だ、女の世話にはならない」
そう言ってよりかかっている柱で背中をこすりなから、
「すべて最低だ。俺はまったく不運すぎる。いろんな人がちょっと好い顔を見せるとすぐにつまらないことになっちまうんだ。傘屋の先代の婆さんも優しかったし、紺屋のお絹さんという縮れっ毛の姉さんも可愛がってくれたけれど、婆さんは中風で死ぬわ、お絹さんは嫁に行くのが嫌で裏の井戸に身投げするわ、碌なことになりゃしない。あなたは不人情で俺を捨てて行くし、もう何もかも最低だ。何が傘屋の油引きだ、 百人前の仕事をしたところで褒美の一つも貰えはしないし、朝から晩まで一寸法師と言われっぱなし、かといって一生かかってもこの背が伸びる保証もない。待ては甘露だと? ふざけるな! 俺なんかは毎日毎日頭にくることしか起きやがらねえんだ! 一昨日だって半次の馬鹿と大喧嘩をやらかして、お京さんだけは人の妾にでるような腸の腐った人じゃないとさんざん言い張ってやったってのに、五日と経たぬうちに降参だ。そんな嘘っつきの、ごまかしの、 欲の深いあなたを姉さん同様に思っていたのがロ惜しい。もうお京さん、あなたには逢わないよ。どうしても逢わないよ。長々お世話様、ここからお礼を申します。勝手にしやがれ、もう誰のことも当てにするもんか、あばよ」と言 って立ちあがり、沓ぬぎへ下りて草履下駄を引っ掛けるのを見て、
「いや吉ちゃん、それあんた勘違いよ。何もあたしがここを離れるからってあんたを見捨てたりしない。あたしはほんとに弟だと思ってるのに、そんな愛想づかしは酷い」と背後から羽がいじめに抱き止めて、
「気の早い子」と諭すと、
「じゃあ妾はやめにする?」と振り返りながら聞かれ、
「誰だって好きで行くところじゃないけれど、あたしはもう決心したの、やめないわ、折角だけどもう変えられないの」 とお京は返す。
そんなふうに言われた吉三は、涙で潤む眼をむけて、なす術なくこうロにする。
「お京さん、お願いだ、どうかこの手を放してください」

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