わかれ道⑤

きょうから「下」。年の瀬の十二月三十日の夜、吉三は仕事の帰りに後ろから、やさしく目隠しされます。

     下

十二月三十日の夜、吉は坂上《さかうへ》の得意場《とくいば》(1)へ誂《あつら》への日限《にちげん》の後《おく》れしを詫《わ》びに行きて、帰りは懷手《ふところで》の急ぎ足、草履下駄《ざうりげた》(2)の先にかゝるものは面白づくに蹴《け》かへして、ころころと転げると右に左に追ひかけては大溝《おほどぶ》の中へ蹴落《けおと》して一人からからと高笑ひ、聞く者なくて天上のお月さま、さも(3)皓々《こうこう》と(4)照し給ふを、寒いといふ事知らぬ身なれば、只《たゞ》こゝちよく爽《さはやか》にて、帰りは例の窓を敲《たゝ》いてと、目算ながら(5)横町を曲れば、いきなり後より追ひすがる人の、両手に目を隠して忍》び笑ひするに、
「誰れだ誰れだ」と指を撫《な》でゝ、
「何だお京さんか、小指のまむし(6)物を言ふ(7)。恐嚇《おど》かしても駄目だよ」
と顔を振《ふり》のけるに、
「憎くらしい、当てられてしまつた」
と笑い出す。

(1)いつも製品を買い入れてくれる店、つまり得意先。
(2)明治中期には、底に細い板を横に並べて打ちつけた板付草履のことをこう呼んだという。
(3)いかにも。まったく。ほんとうに。
(4)白く光り輝くさま。
(5)心のなかで計画しながら。
(6)まむし指。指の第一関節が蝮のかまくびのように曲がった指、または、それが自由に曲がる指のこと。まむし指の人は器用だともいわれる。
(7)両手で目隠しをした人が誰かを証明している。

お京はお高祖頭巾《こそづきん》(8)眉深《まぶか》に風通《ふうつう》(9)の羽織着て、例《いつも》に似合ぬよき粧《なり》なるを、吉三は見あげ見おろして、
「お前、何処《どこ》へ行きなすつたの。今日明日《あす》は忙がしくてお飯《まんま》を喰《た》べる間《ま》もあるまいと言ふたではないか。何処へお客様にあるいてゐたの」
不審を立てられて(10)
取越しの御年始《ごねんし》(11)さ」
と素知《そし》らぬ顔《かほ》をすれば、
「嘘《うそ》をいつてるぜ、三十日《みそか》の年始を受ける家《うち》はないやな、親類へでも行きなすつたか」
と問へば、
とんでもない(12)親類へ行くやうな身になつたのさ。私は明日あの裏の(13)移転《ひつこし》をするよ。あんまりだしぬけだから、さぞお前おどろくだらうね。私も少し不意なのでまだ本当とも思はれない。兎《と》も角《かく》喜んでおくれ、悪るい事ではないから」
と言ふに、
(8)日蓮上人の像の頭巾に似るところから、ちりめんなどの四角い布にひもをつけ、目だけを出して頭と顔を包む婦人の頭巾。宝暦(1751-1764)ごろ、歌舞伎の女形中村富十郎が着用してから若い女の間で人気を呼んだ。明治時代に防寒用具として大流行し、中年の女性は鉄色、藍鼠(あいねずみ)、浅葱(あさぎ)鼠の色を、若い女性は紫、藤、紅掛け鼠の色を用いた。
(9)風通お召。縦横とも二色の色糸を用い、表裏に正反対の模様を織り出した高級絹布。
(10)疑いの目を向けられて。
(11)期日を繰り上げて暮のうちに行う年頭のあいさつ。
(12)これまでのような長屋暮らしとはかけ離れた境遇の。
(13)裏長屋の。

本当か、本当か(14)と吉は呆《あき》れて、
「嘘《うそ》ではないか、串談《じようだん》ではないか、そんな事を言つておどかしてくれなくていい。己《お》れはお前がゐなくなつたら、少しも面白い事はなくなつてしまふのだから、そんな厭《い》やな戯言《じようだん》は廃《よ》しにしておくれ。えゝ、詰《つま》らない事を言ふ人だ」
と頭《かしら》をふるに、
「嘘《うそ》ではないよ、何時《いつ》かお前が言つた通り、上等の運が馬車に乗つて迎ひに来たといふ騷ぎだから、彼処《あすこ》の裏にはゐられない。吉ちやん、そのうちに糸織《いとおり》ぞろひを調《こしら》へて上《あげ》るよ」
と言へば、
「厭《い》やだ、己《お》れはそんな物は貰《もら》ひたくない。お前、その好《い》い運といふは、詰《つま》らぬ処《ところ》へ行かう(15)といふのではないか。一昨日《をとゝひ》自家《うち》の半次さんがさういつてゐたに、『仕事やのお京さんは八百屋横町《やをやよこちやう》に按摩《あんま》をしてゐる伯父《をぢ》さん(16)口入《くちい》れ(17)で、何処《どこ》のかお邸《やしき》へ御奉公に出るのださうだ。何《なに》お小間使ひ(18)といふ年ではなし、奥さまのお側《そば》(19)お縫物し(20)の訳はない、三《み》つ輪《わ》(21)に結《ゆ》つて総《ふさ》の下《さが》つた被布《ひふ》(22)を着るお妾《めかけ》さまに相違はない。どうしてあの顔で仕事やが通せるものか(23)』と、こんな事をいつてゐた。己れはそんな事はないと思ふから、聞違ひだらうと言つて大喧嘩《おほげんくわ》をやつたのだが、お前、もしや其処《そこ》へ行くのではないか。そのお邸《やしき》へ行くのであらう」
と問はれて、

(14)この繰り返しに、吉三の半信半疑、驚きの大きさが表れている。
(15)妾になることを指している。
(16)小父さん。よその年配の男性を親しんでいっており、お京との血縁関係はない。
(17)奉公先の世話をすること。
(18)身の回りの雑用をする女性。
(19)奥さま付の女中。
(20)「し」は師。お抱えの縫物師。
(21)三輪髷(みつわまげ)。髻(もとどり)の末を三つに分けて二つを左右で輪の形に束ね、他の一つを中央で結ぶ結いかた。三つの輪から成ることによる。女師匠や妾などが多く結った。
(22)羽織に似ているが、衿は丸い小衿をつけ、背のほうへ折り返して着る上着。前身頃(みごろ)には竪衿(たてえり)をつけ、竪衿を重ねて着用する。幕末には武家の女性の平常用に、やがて一般の婦女子にも用いられるようになり、明治・大正期まで続いた。芝居などで愛妾らが着た。
(23)あんなに美人のお京を男たちが放っておくはずはないから、堅気の仕立屋などつづけられやしない。

「何も私だとて行きたい事はないけれど、行かなければならないのさ。吉ちやん、お前にももう逢はれなくなるねえ」
とて唯《たゞ》いふ言《こと》ながら(24)萎《しを》れて聞ゆれば、
「どんな出世になるのか知らぬが、其処《そこ》へ行くのは廃《よ》したがよからう。何もお前、女口《をんなぐち》一つ(25)針仕事で通せない事もなからう。あれほど利《き》く手(26)を持つてゐながら、なぜつまらないそんな事を始めたのか。あんまり情《なさけ》ないではないか」と吉は我が身の潔白(27)に比べて、
「お廃《よ》しよ、お廃しよ、断つておしまひな」
と言へば、
「困つたね」とお京は立止まつて、
「それでも吉ちやん、私は洗ひ張《はり》に倦《あ》きが来て、もうお妾《めかけ》でも何でもよい、どうでこんな詰らないづくめだから、いつその腐《くさ》れ縮緬(28)着物《ちりめんぎもの》で世を過ぐさうと思ふのさ」
思ひ切つた事を我れ知らず言つて、
「ほゝ」と笑ひしが、
「兎《と》も角《かく》も家《うち》へ行かうよ、吉ちやん、少しお急ぎ」
と言はれて、
「何だか己《お》れは根つから面白いとも思はれない。お前まあ先へお出《いで》よ」
と後《あと》に付いて、地上に長き影法師を心細げに踏んで行く。
(24)たんたんという言葉なのに。
(25)女一人の生計。
(26)すぐれた(縫い物の)手腕。
(27)吉三も、仕事にかけては大人に負けない腕前を誇っているため。
(28)いっそのこと、貞操を売ってちりめん(生地の表面に細かな縮じわのある絹織物)を着られる身、妾にでもなんでもなってやろう、というやけっぱちな表現。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2008.1)[訳・阿部和重]から

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十二月三十日の夜、吉三は坂上の得意先へ注文の品が期限に遅れたのを詫びにゆき、帰りは懐に手を入れ急ぎ足、草履下駄の先にぶつかるものを面白そう に蹴りながら、ころころと転がるのを左右に追いかけては大溝の中に蹴り落とし、一人からからの高笑い、その声を聞く者もなく、月明かりが皓々と地上を照らすのも、寒さ知らずの身だからただ心地よく爽やかに感じ、帰りは例の窓を敲いてと目算しながら横町を曲がると、いきなりあとから追いかけてきた何者かが両手で目隠しをして忍び笑い、「誰、誰」とその指を撫でてみる。
「何だ、お京さんか。小指のまむしでピンときた。おどかしたって駄目だよ」
そう言って振り向くと、
「憎らしい、当てられちゃった」と笑う声。

お京は高祖頭巾を目深にかぶり、風通お召の羽織姿。いつもと異なる良い身なりを、吉三は上から下まで眺めまわし、
「姉さん、何処行って来た? 今日明日は忙しくて飯喰う暇すらありゃしないと言ってたはずだ。何処へ呼ばれてきたのさ」と不審がるので、
「取越しのお年始よ」とひとまず知らんぷり。
「嘘いってるぜ。三十日の年始を受ける家は無い。親類を訪ねたとでもいうのか?」
「そう親類、しかもとんでもないところ。あたし明日、あの裏から引っ越すわ。あんまりだしぬけだから吃驚でしょ。あたしだってちょっと不意のことなんでまだ信じられないの。でも喜んで、悪いことじゃないのよ」
 「本当か? 本当か?」
吉三は呆然となり、
「嘘、冗談、そんなことを言って驚かすことない。俺はあなたがいなくなったら絶望する、そんな厭な冗談は御免だ。 まったくつまらんことを言う人だな」
と口にして頭を振る。

「嘘じゃないの。前にあんたが言った通り、幸運が馬車に乗ってお迎えに来ちゃったからあそこの裏にはいられないの。吉ちゃん、糸織のそろえをこしらえてあげられるわ、夢の話じゃなく」
「厭だ、俺はいらない。お京姉さん、その幸運、くだらん処へ行くという話じゃないのか? 一昨日うちの半次さんが言ってやがったぞ。仕事屋のお京さんは八百屋横町で按摩をしているおじさんのロ入れでどこかのお邸へご奉公に出るんだそうだ、なに、お小間使いという年頃ではないし、奥様のお側仕えやお縫物師のわけはない、三つ輪に結って総の下がった被布を着るお妾さんになるに違いない、どうしてあの美人が仕事屋で一生通せるもんか、と、 こんなふうに言ってやがった。俺はそんなことはないと思うから、間違いだろうと言って大喧嘩をしたんだけれど、あなたはもしや、そこへ行くんじゃないか? そのお邸へ行くんだろう!」

そんなふうに問われても、
「あたしだってそんなに行きたいわけじゃない、たけど行かなきゃならないの。吉ちゃん、あんたにももう会えなくなるのね」とただ答えるのみであり、それかしょんぼり聞こえるので、
「どんな出世か知らねえが、そこへ行くのはやめたらいい。女ひとりの暮らしくらい、針仕事でやってゆけないこともなかろう。あれほど器用な手つきでいながら何故つまらない、そんなことはじめちまったのかあんまり情けないじゃないか」と吉三は、我が身の潔白に比べつつ、
「やめ、 やめ、断ろう」と言ってみるが、
「困ったわね」とお京は立ち止まり、
「ねえ吉ちゃん、あたしは洗い張りに飽きちゃって、もうお妾でも何でもいい、どうせこんなつまらないことづくめだから、いっそのこと腐れ縮緬着物で派手に暮らしちゃおうと思ってるの」などと思い切ったことを自分でもわからぬままに言い、ほほと笑って、
「ともかくうちへ行こう、吉ちゃん、ねえ早く」と誘ってはみたものの吉三は、「何だかね、俺は全然面白くない。姉さんまあ先へゆきなよ」と後ろを歩き、地面に長くのびた影法師を心細げに踏んで行く。

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