わかれ道④

 吉三が慕うお京は、春に裏長屋に越してきたばかり。長屋の人たちとの付き合いもよろしい、二十余りの意気な女です。

仕事屋(1)のお京は今年《ことし》の春よりこの裏へと越して来《き》し者なれど、物事に気才《きさい》の利《き》きて(2)長屋中《ながやぢゆう》への交際《つきあひ》もよく、大屋《おほや》(3)なれば傘屋の者へは殊更《ことさら》に愛想を見せ、「小僧さん達、着る物のほころびでも切れたなら、私の家《うち》へ持つてお出《いで》。お家は御多人数、お内儀《かみ》さんの針もつていらつしやる暇《ひま》はあるまじ。私は常住(4)仕事、畳紙《たゝう》(5)と首つ引《ぴき》の身なれば、本の(6)一針造作はない。一人住居《ずまゐ》の相手なしに毎日毎夜《まいや》さびしくつて暮してゐるなれば、手すきの(7)時には遊びにも来て下され。私はこんながらがらした(8)気なれば、吉ちやんのやうな暴《あば》れさんが大好き。疳癪《かんしやく》がおこつた時には表の米屋が白犬《しろいぬ》を擲《は》ると思ふて、私の家の洗ひかへしを光沢出《つやだ》しの小槌《こづち》(9)に、碪《きぬた》うちでもやりに来て下され。それならばお前さんも人に憎くまれず、私の方でも大助かり、ほんに両為《りやうだめ》(10)で御座《ござ》んすほどに」と戯言《じようだん》まじり、何時《いつ》となく心安く、「お京さん、お京さん」とて入浸《いりびた》るを、職人ども翻弄《からかひ》ては、

(1)仕立屋。
(2)機転が効いて賢い。機敏にはたらく才気。
(3)大家、つまり貸家の家主。
(4)ふだん。いつも。
(5)和服などを畳んでしまっておくため渋やうるしを塗り、折り目をつけた厚い包み紙。
(6)連体詞の「ほんの」。下の語に限定される意を強めて、まさにそれだけ、の意で用いる。
(7)手が空いている。
(8)小事にこだわらないで度量の広い、外交的な性格。
(9)洗った布地をきぬた(石や木の台)にのせて打つ木のつち。
(10)両方のためになる。

帯屋《おびや》の大将のあちらこちら(11)桂川の幕(12)が出る時は、お半《はん》の背中《せな》に長右衛門《てうゑもん》(13)と唱《うた》はせて、あの帯の上へちよこなんと乗つて出るか。此奴《こいつ》は好《い》いお茶番(14)だ」と笑はれるに、「男なら真似て見ろ。仕事やの家へ行つて茶棚《ちやだな》の奥の菓子鉢《くわしばち》の中に、今日は何が何箇《いくつ》あるまで知つてゐるのは恐おそらく己《お》れの外にはあるまい。質屋の兀頭《はげあたま》め、お京さんに首つたけで、仕事を頼むの何がどうしたのと小うるさく這入込《はいりこ》んでは、前だれの半襟《はんえり》の帯つか(15)はのと付届《つけとゞけ》(16)をして、御機嫌を取つてはゐるけれど、つひしか喜んだ挨拶《あいさつ》をした事が無い。ましてや夜でも夜中でも傘屋の吉が来たとさへ言へば、寢間着《ねまき》のまゝで格子戸《かうしど》を明けて、『今日は一日遊びに来なかつたね。どうかお為《し》か、案じてゐたに」と手を取つて引入れられる者が他にあらうか。お気の毒様なこつたが、独活《うど》の大木《たいぼく》は役にたゝない(17)山椒《さんしよ》は小粒で珍重される(18)」と高い事(19)をいふに、「この野郎め」と背を酷《ひど》く打たれて、「ありがたうございます」と済まして行く顔つき、背《せい》さへあれば人《ひと》串談《じようだん》とて免《ゆる》すまじけれど、一寸法師の生意気《なまいき》と爪《つま》はじきして、好い嬲《なぶ》りものに、烟草《たばこ》休みの話しの種なりき。
(11)帯屋長右衛門の場合とはあべこべ。浄瑠璃の「桂川連理柵」の主人公の長右衛門は、親子ほど年の違う14歳のお半と恋仲になって死の道行をする。ここではお京のほうが年上なので「あちらこちら」と言っている。
(12)「桂川連理柵」における死への道行の場。
(13)桂川道行のくだりの浄瑠璃の文句「お半をせなに長右衛門」をもじっている。
(14)茶番狂言。こっけいな寸劇。
(15)女帯の表側に用いる布地。
(16)相手の歓心を得るための贈り物。
(17)大きくなったウドは食べられず、建材や薪にもできないことから、身体ばかり大きくて、役に立たない人のたとえ。諺に「独活の大木柱にならぬ」。
(18)山椒の実は小さいが極めて辛いところから、 からだは小さくても気性や才能がひじょうに鋭くてすぐれていることのたとえ。「山椒は小粒でもぴりりと辛い」。
(19)いばって、相手を見下した言葉。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2008.1)[訳・阿部和重]から

仕事屋のお京は今年の春からこの裏へと越して来た者だけれど、物事に気才が利き、長屋の住人らとのつきあいもよろしく、大家なの で傘屋の者へは殊更愛想がよく、
「小僧さんたち、着るものがほころびたらあたしん家へ持ってきて。お家は大人数だし、お内儀さんだって針なんかお持ちになる暇もないでしょ。あたしはいつも仕事柄、畳紙を手放せない身だからね、ほんの一針縫うくらいわけないわ。一人住まいで話相手もなく毎日毎晩さびしくって暮らしているの。手すきの時は遊びにもきてよ。あたしはこんながらがらした気性だから、吉ちゃんみたいな暴れん坊さんが大好き。癇癪がおこった時には表の米屋の白犬をぶつつもりで、あたしん家の洗濯物、光沢出しの小槌で、碪うちでもやりにおいでよ。それならあんたも人に憎まれないしあたしの方でも大助かり。ほんとに一石二鳥よ」などと冗談まじりにロにして、いつであっても心安い。 

「お京さん、お京さん」と入浸るのを職人どもはからかって 、
「帯屋の大将とはあべこべだ、桂川の幕が出る時はお半の背中に長右衛門」と唄わせて、
「あの帯の上へちょこんと乗って出るか、こいつは滑稽、好い茶番だぜ」などと笑われると、
「男なら真似てみろ。仕事屋の家へ行き、茶棚の奧の菓子鉢の中に今日は何がいくつあるかまで知ってるのは、 おそらく俺のほかにはいないさ。質屋の禿げめ、お京さんに惚れこみやがって、仕事を頼む の何がどうしたのと小うるさく纒わりついちゃあ、 前だれの半襟の帯っ皮のとつけ届けたりしてご機嫌とってやがるが、 いまだ一度も喜んだ挨拶をされてすらいない。ましてや夜でも夜中でも、傘屋の吉が来たとさえ言や寝間着のまんまで格子戸あけて、今日は一日遊びに来なかったのね、どうかしたの? 心配しちゃった、とか言われて手を取られて引き入れられる者がほかにいるもんかね。お気の毒なこったが、独活 の大木なんざ役に立ちゃしない、山椒は小粒で珍重される」と偉ぶって言う。
「この野郎め」と言って背中を酷くたたかれても、
「 ありがとうごさいます」と澄まし顔。人並みの背丈なら、冗談であっても許されまいが、 所詮は一寸法師の生意気と爪はじきにあい、好い嬲りものとして煙草休みの話の種となるほかない。

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