わかれ道②
12月のある夜更け。一人住まいのお京の家を訪ねてきた、傘屋奉公の吉三は、彼女に他人とは思われない親しみを感じているようです。
例《いつも》の如く台処《だいどころ》から炭を持出《もちいだ》して、
「お前は喰《く》ひなさらないか」
と聞けば、
「いゝえ」
とお京の頭《つむり》をふるに、
「では己《お》ればかり御馳走《ごちそう》さまにならうかな、本当に自家《うち》の吝嗇《けちん》ぼうめ、やかましい小言ばかり言ひやがつて、人を使ふ法をも知りやあがらない。死んだお老婆《ばあ》さん(1)はあんなのではなかつたけれど、今度の奴等《やつら》(2)と来たら一人として話せるのはない。お京さん、お前は自家《うち》の半次《はんじ》さん(3)を好きか、随分厭味《いやみ》に出来あがつて、いゝ気の骨頂《こつちやう》(4)の奴《やつ》ではないか。己れは、親方の息子だけれど、彼奴《あいつ》ばかりはどうしても主人とは思はれない。番ごと(5)喧嘩《けんくわ》をして遣《や》り込めてやるのだが、随分おもしろいよ」と話しながら、金網の上へ餅《もち》をのせて、
「おゝ、熱々《あつあつ》」
と指先を吹いてかゝりぬ。
「己れはどうも(6)お前さんの事が他人のやうに思はれぬは、どういふものであらう。お京さん、お前は弟《おとゝ》といふを持つた事はないのか」
と問はれて、
「私は一人娘《ひとりご》で同胞《きやうだい》なしだから、弟《おとゝ》にも妹《いもと》にも(7)持つた事は一度もない」
と云ふ。
(1)傘屋の先代の主人である、お松のこと(後出)。
(2)傘屋のいまの主人とその家族。
(3)主人の息子(後出)。
(4)この上ないひとりよがり。
(5)機会のあるたびに。
(6)この後、孤児である吉三のさびしがり屋の本音が出る。
(7)弟妹というものを。
「さうかなあ、それでは矢張《やつぱり》何でもない(8)のだらう、何処《どこ》からかかうお前のやうな人が、己《お》れの真身《しんみ》の姉《あね》さんだとか言《い》つて出て来たら、どんなに嬉《うれ》しいか。首《くび》つ玉《たま》へ噛《かじ》り付いて己れはそれぎり往生しても(9)喜ぶのだが、本当に己れは木の股《また》からでも出て来たのか、つひしか(10)親類らしい者に逢《あ》つた事もない。それだから幾度《いくど》も幾度も考へては、己れはもう一生誰れにも逢ふ事が出来ない位なら、今のうち死んでしまつた方が気楽だと考へるがね。それでも欲があるから可笑《をか》しい、ひよつくり変《へん》てこな夢《ゆめ》なんかを見《み》てね。平常《ふだん》優しい事の一言《ひとこと》も言つてくれる人が(11)、母親《おふくろ》や親父《おやぢ》や姉《あね》さんや兄《あに》さんのやうに思はれて、もう少し生きてゐやうかしら、もう一年も生きてゐたら誰《だ》れか本当の事を話してくれるかと楽しんでね、面白くもない油引きをやつてゐるが、己れみたやうな変な物が世間にもあるだらうかねえ。お京さん、母親《おふくろ》も父親《おやぢ》も空《から》つきり(12)当《あて》が無《な》いのだよ。親なしで産《うま》れて来る子があらうか、己れはどうしても不思議でならない」と焼《やき》あがりし餅を両手でたゝきつゝ(13)、いつも言ふなる(14)心細さを繰返せば、(8)おれとお前(吉三とお京)は、姉弟でもなんでもない。
「それでもお前、笹づる錦(15)の守り袋といふやうな証拠はないのかえ、何か手懸《てがゝ》りはありさうなものだね」
とお京の言ふを消して(16)、
(9)この世を去っても。
(10)ついに。名詞「つい(終)」に助詞「し」「か」がついた。
(11)暗にお京をさしている。
(12)否定表現をともなって、まるっきり、てんで。
(13)熱いのを冷ましたり、焦げを取ったりするしぐさ。
(14)言うところの。
(15)笹の葉を蔓草にかたどった模様に織り出した錦地。
(16)打ち消して。
「何、そんな気の利きいた物はありさうにもしない(17)。生れると直《すぐ》さま橋の袂《たもと》の貸赤子《かしあかご》(18)に出されたのだなどゝ朋輩《ほうばい》の奴等《やつら》が悪口をいふが、もしかするとさうかも知れない。それなら己《お》れは乞食の子だ、母親《おふくろ》も父親《おやぢ》も乞食かも知れない、表を通る襤褸《ぼろ》を下げた奴《やつ》が矢張《やつぱり》己れが親類まきで(19)、毎朝きまつて貰《もら》ひに来る跛《びつこ》片眼《めつかち》のあの婆《ばゝ》あ何かゞ、己れの為《ため》の何《なん》に当るか知れはしない。話《はな》さないでもお前《まへ》は大抵《たいてい》しつてゐるだらうけれど、今の傘屋に奉公する前は矢張《やつぱり》己れは角兵衛の獅子(20)を冠《かぶ》つて歩いたのだから」と打しをれて、(17)ありそうにもない。
「お京さん、己れが本当に乞食の子なら、お前は今までのやうに可愛《かわゆ》がつてはくれないだらうか。振向いて見てはくれまいね」
と言ふに、
「串談《ぢようだん》をお言ひでない。お前がどのやうな人の子でどんな身か、それは知らないが、何だからとつて(21)嫌やがるも嫌やがらないも言ふ事は無い。お前は平常《ふだん》の気に似合ぬ情《なさけ》ない事をお言ひだけれど、私が少しも(22)お前の身なら非人(23)でも乞食でも構ひはない。親がなからうが、兄弟がどうだらうが、身一つ(24)出世をしたらばよからう。なぜそんな意気地《いくぢ》なしをお言ひだ」
と励ませば、
「己れはどうしても駄目だよ、何《なん》にもしやうとも思はない」
と下を向いて顔をば見せざりき。
(18)乞食が哀れさを出すために借りる赤ん坊。
(19)親類一族で。「まき」は、本家・分家の関係をもつ家同士をよぶ呼び名。
(20)角兵衛獅子の獅子頭(がしら)。角兵衛獅子は、獅子頭をかぶり、鶏の尾をつけた衣服を着た子供たちが、笛、太鼓の音に合わせて踊り回り、逆立ちなどの技を見せる。もともと越後蒲原地方に興ったという。
(21)どういう身分だからといって。
(22)「構ひはない」に掛かる。
(23)人間ではないの意で、鬼神などが人に姿を変えたものをいう。江戸時代には幕藩体制の民衆支配の一環で、えた(穢多)とともに士農工商より下の身分に位置づけられ、過酷な差別を受けた。
(24)自分一人。自分のからだ一つ。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2008.1)[訳・阿部和重]から
いつも通り台所から炭を持ち出し、「姉さん喰べないか」ときくが、お京は「いいえ」と頭を振る。
「なら俺ひとりで戴こうかな。まったくうちのけち野郎、ぐだぐだ小言ばかり言いくさりやがって、人使いをまるで心得ちゃいない。死んだ婆さんはああじゃなかった、今度の奴等ときたら一人もま ともに話せやしねえ。お京さん、うちの半次さん印象どう? ひどく厭味な感じだし、お調子者の馬鹿じゃないか。親方の伜だとはいえ、俺はあいつが主人だとはとても信じられない。ことあるごとに喧嘩ふっかけて黙らせてやるんだけれどなかなか爽快だよ」などとしゃべりながら金網の上にのせた餅をつまみ、「おお、熱い熱い」と指先を吹いて喰べはじめる。
「俺はどうもあなたを他人だとは思えないんだがどういうわけだろう。お京さん、あなたに弟はいないの?」
「あたしは一人っ子。兄弟姉妹は一人もいない。だから弟も妹ももってないわ」
「そうかなあ、それじゃあやっぱり何でもないらしいな。何処からかこう、あなたみたいな人が俺の真の姉さんだとか言って出てきちゃったら最高だね。俺はもう首っ玉にかじりついてそれっきり死んじまってもはしゃぎまわってるくらいだ。本当に俺は木の股からでも生まれちまったのか、親類らしいやつにお目にかかったことすらありゃしない。だから幾度も幾度も考えては、俺はこのさき一生誰にも逢えないくらいなら今のうちにあの世へ行っちまった方が気楽だと考えるがね。それでも欲が尽きないからおかしい。ひょっくり変てこな夢なんか見ちゃってね、ふだん優しいことの一つも言ってくれる人がおふくろや親父や姉さんや兄さんみたいに思えちまって、もうちょっと人生つづけてみようか、もう一年も生きていたら誰か本当のことを話してくれるかも知れない、とか思って楽しみながら、つまんない油引きをやっているけれど、俺みたいな変ちくりんがほかにも世間にいやがるのかね、お京さん、おふくろも親父もからっきし当てがないんだよ。親なしで生まれて来る子がいる? まったく不思議でならないよ、俺は」
そんなふうに彼は、焼きあがった餅を両手でたたき、いつもながらの口癖の、心細さを繰り返す。
「でもあんた、笹づる錦の守り袋とか、証拠の品は無いの? どこかに手掛かりくらいならありそうなものたけど」
そんなお京の言葉を打ち消して、
「何、そんな気の利いたものはありそうにないね。生まれてすぐさま橋のたもとの貸赤子へ直行したんだなんて朋輩の奴等か悪口を言ってやがるんだが、もしかするとそうかも知れない。そしたら俺は乞食のガキだ。おふくろも親父も乞食なのかも。襤褸を下げて表を通りやがる奴がやっぱり俺の親戚か何かで、毎朝必ずもの貰いに来るびっこめっかちのあの婆あだとかが俺の家族ということだって大いにあり得る。話さないでもあなたは大方ご存じなんだろうが、いまの仕事に就く前は、俺は案の定、角兵衛の獅子かぶって銭乞い歩いてたんだから」とうちひしがれ、さらに、
「お京さん、俺が本当に乞食の子ならあなたはもうかわいがってはくれないし、振り向いてもくれないだろうね」などと言われたため、
「冗談言わないで。あんたがどんな人の子でどんな身分か知らないけれど、嫌がるも嫌がらないもない。さっきからいつものあんたらしくない情けないことばかり言ってるけれど、仮にあたしがあんたの身なら非人でも乞食でも全然構いはしない。親が無くても兄弟がどうでも自分ひとり出世すれば文句ない。何故そんな意気地なしを言うの」と励ませば、
「俺は絶対に駄目だ、何にもしたくない」と返して彼は俯き、顔を見せようともしない。
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