わかれ道①
きょうから「わかれ道」に入ります。初出は、『国民之友』277号(明治29年1月)の巻末付録「藻塩草」。タイトルは、直接的には主人公の吉三とお京の別れを指していますが、一般に人生の岐路を暗示するものになっています。 上
「お京《きやう》さん(1)、居《ゐ》ますか」
と窓の戸の外に来て、ことことと羽目《はめ》(2)を敲《たゝ》く音のするに、
「誰《だ》れだえ、もう寢《ね》て仕舞《しま》つたから明日《あした》来《き》てお呉《く》れ」
と嘘《うそ》を言へば(3)、
「寢たつて宜《い》いやね、起きて明けてお呉んなさい、傘屋《かさや》の吉《きち》(4)だよ、己《お》れだよ」
と少し高く言へば、
「いやな子だね、こんな遅くに何を言ひに来たか、又お餅《かちん》(5)のおねだりか」と笑つて、
「今あけるよ、少時《しばらく》辛棒《しんばう》おし」
と言ひながら、仕立かけの縫物に針どめして立つは、年頃《としごろ》二十余りの意気な(6)女、多い髮の毛を忙《いそが》しい折からとて結び髮にして(7)、少し長めな八丈(8)の前だれ、お召《めし》(9)の台なしな(10)半天《はんてん》を着て、急ぎ足に沓脱《くつぬぎ》(11)へ下りて、格子戸《かうしど》に添ひし雨戸を明くれば、
「お気の毒さま」と言ひながらずつと這入《はい》るは、一寸法師と仇名《あだな》のある町内の暴《あば》れ者、傘屋の吉とて持《も》て余し(12)の小僧《こぞう》なり。
(1)仕立屋のお京(女主人公)。会話による書き出しで、生き生きと描く。
(2)羽目板。建物の壁における板張りの一種で、同一平面に張った板をいう。
(3)相手がだれかを知っていて、わざとからかう。親しさが示されている。
(4)主人公の吉三のこと。
(5)餠(もち)の女房詞。「搗(か)ち飯(いひ)」が変化した。
(6)垢(あか)抜けして色気がある。
(7)髮の毛がたっぷり多いのは美人の条件とされ、それを髷にせず、ぐるぐる巻きに結っている。
(8)八丈絹。八丈島で織られる、平織りの絹織物。
(9)御召縮緬(おめしちりめん)。縦横に練り糸を用い、横糸に強くよりをかけて織った縮緬。縮緬の上等なもので、貴人が着たため、こう呼ばれる。
(10)ひどくいたんで汚れた。
(11)玄関や縁側の履き物をぬぐところ。上がり口。
(12)取り扱い方や処置に困る。手に負えない。
年は十六なれども不図《ふと》見る処《ところ》は一か二か(13)、肩幅せばく顏少《ちひ》さく、目鼻《めはな》だちはきりきりと利口《りこう》らしけれど、いかにも背《せい》の低ければ人嘲《あざけ》りて仇名《あだな》はつけゝる、(13)ちょっと見たところでは、11歳か12歳くらいにしか見えない。
「御免なさい」
と火鉢《ひばち》の傍《そば》へづかづかと(14)行けば、
「お餅《かちん》を燒《や》くには火《ひ》が足《た》らないよ。台処《だいどころ》の火消壺《ひけしつぼ》(15)から消し炭(16)を持つて来て、お前が勝手に燒いてお喰《た》べ、私は今夜中にこれ一枚《ひとつ》を上げねばならぬ(17)。角《かど》の質屋の旦那《だんな》どのが御年始着《ごねんしぎ》だから」
とて針を取れば、吉は、
「ふゝん」と言つて、
あの兀頭《はげあたま》には惜しい物だ。御初穂《おはつう》(18)を己《お》れでも着てやらうか」
と言へば、
「馬鹿をお言ひでない、人のお初穂《はつう》を着ると出世が出来ないと言ふではないか。今つから延びる(19)事が出来なくては仕方が無《な》い、そんな事を他処《よそ》の家《うち》でもしては不用《いけない》よ」
と気を付けるに、
「己《お》れなんぞ、御出世は(20)願はないのだから、他人《ひと》の物だらうが何《なん》だらうが、着かぶつて(21)やるだけが徳《とく》さ。お前さん、何時《いつ》かさう言つたね、運が向く時になると己《お》れに糸織《いとおり》(22)の着物をこしらへてくれるつて。本当に調《こしら》へてくれるかえ」
と眞面目《まじめ》だつて言へば、
(14)吉三は、お京と親しく、勝手をよく知っていることがうかがえる。
(15)炭火などを入れ、密閉して消すための壺。
(16)薪や炭の火を途中で消してつくる炭。軽くて柔らかく、火がおきやすい。
(17)仕立て上げなければならない。
(18)ここでは、だれも袖を通さない仕立ておろしの着物。もともと、神仏に供えるその年初めて稔った稲穂のことをいう。
(19)背が伸びるのと出世する意を掛けている。
(20)吉三のやけ気味な言いかた。「御」は、縁のない出世は問題にしないという自嘲気味なニュアンスで用いている。
(21)「着て」を乱暴に言っている。
(22)絹(きぬ)糸織)の略で、 絹の撚(より)糸を、縦、横に用いて織った、上等な織物。
「それは調《こしら》へて上げられるやうならお目出度《めでたい》のだもの、喜んで調へるがね。私が姿を見ておくれ、こんな容躰《ようだい》(23)で人さまの仕事をしてゐる境界《きやうがい》(24)ではなからうか。まあ夢のやうな約束さ」
とて笑つてゐれば、
「いゝやな、それは(25)。出来ない時に調《こしら》へてくれとは言はない。お前さんに運の向いた時の事さ。まあそんな約束でもして喜ばして置いておくれ。こんな野郎が糸織《いとおり》ぞろへを冠《かぶ》つた(26)処《ところ》がをかしくもないけれども」
と淋《さび》しさうな笑顏をすれば、
「そんなら吉ちやん、お前が出世の時は私にもしておくれか。その約束も極めて(27)置きたいね」と微笑《ほゝゑ》んで言へば、
「そいつはいけない、己《お》れはどうしても出世なんぞはしないのだから」
「なぜなぜ」
「なぜでもしない、誰《だ》れが来て無理やりに手を取つて引上げても、己《お》れは此処《こゝ》にかうしてゐるのがいゝのだ。傘屋の油引き(28)が一番好《い》いのだ。どうで盲目縞《めくらじま》(29)の筒袖(30)に三尺(31)を背負《しよ》つて産《で》て来たのだらうから、渋《しぶ》(32)を買ひに行く時、かすり(33)でも取つて吹矢(34)の一本も当りを取るのが好《い》い運さ。お前さんなぞは以前《もと》が立派な人だといふから、今に上等の運が馬車に乗つて迎ひに来やすのさ(35)。だけれどもお妾《めかけ》になるといふ謎ではないぜ。悪く取つて怒つておくんなさるな」
と火なぶり(36)をしながら身の上を歎くに、
「さうさ、馬車の代りに火の車でも(37)来るであらう。隨分《ずゐぶん》胸の燃える事があるからね」
とお京は尺《ものさし》を杖に振返りて、吉三が顔を守りぬ(38)。
(23)ありさま。すがた。
(24)境遇、置かれる環境。
(25)「いゝやな」は、下町の職人らが使う言葉。おとなぶっている。
(26)「着る」を乱暴に言った「着かぶって」の略。
(27)決めて。
(28)番傘を作る際、張った紙に油を塗る職人。
(29)紺染めにした木綿平織りもの。縞目もわからないほど細かい縞ということから、このように呼ばれた。
(30)たもとがなく、筒のような形をした袖のついた着物。職人らが着た。
(31)三尺手拭を半纏の上から帯がわりにしめたのに由来する職人用の帯。長さが三尺(約90cm)で済まされるところからいう。
(32)渋柿の実からしぼり取った渋みのある薄茶色の液体。紙張りの雨傘に防腐剤として塗った。
(33)上前をはねる。ここでは、渋を買う代金の一部をごまかして取ることを指す。
(34)竹などで作った筒に入れた紙の矢を吹いて的に当てる遊び。当たると景品がもらえた。
(35)「やす」は連用形に付き、丁寧の意を表わす。近世前期上方では多く遊女が使用、後期は上方語・江戸語で一般化した。吉三がおとなぶって言っている。
(36)火遊び。ここでは、ここでは、火箸で炭の火をいじることをいっている。
(37)「馬車」は当時の上流階級や金持ちの乗り物。「火の車」は火車(かしゃ)の訓読みで、地獄にあって生前悪事をした者を乗せて地獄に運ぶという、火が燃えている車。生計のやりくりに苦しむこともいう。そこで「車」にかけて、しゃれている。
(38)見守った。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
上
「お京さ ん」
窓蓋の外からことことと羽目板を敲く音がする。
「誰? もう寝たの、だから明日にしてほしい 」
これは嘘。
「寝てたっていい、起きてあけて、傘屋の吉、俺」
やや声高にそう言う。
「やな子、こんな夜中にいったい何の用、またお餅のおねだり?」などといって笑い、さらに、
「今あける、ちょっと待って」と口にしながら仕立てかけの縫物に針どめをして立ちあがる。それは二十歳を少し過ぎた意気な女。忙しい最中のため多い髪の毛を結び髪にしており、 いくらか長めの八丈の前だれと、お召縮緬の台なし な半纒を着て、さっそく沓ぬぎへ下りてゆき、格子戸に添った雨戸を開く。
「悪いね」
そう言いながらずずっと人って来るのは一寸法師とあだ名される町内の暴れ者、誰もが手を焼く傘屋の吉、年齢は十六だが一見十一か二にしかみえず、肩幅が狭くて顔は小さく、目鼻だちはきりきりと賢そうなのに、背の低さゆえ人々は嘲りそんなふうに呼称する。彼は「ごめんよ」と言って火鉢の傍へづかづかと近寄る。
「こんな火じゃお餅は焼けないわ。台所の火消壺から消炭もってきて、あんた勝手に焼いて喰べて。あたしは今夜中にこれ一枚を仕上げなきゃならない。角の質屋の旦那さんのお年始着なの」と述べて針を取ると、吉三はふふんと言ってから、
「あの禿げにはもったいない代物だ。そのお初穂、まず俺が袖を通してやろう」と返す。
「馬鹿言わないで。人の仕立下ろしを着ると出世できないって言うわ。その歳でわざわざ出世を諦めるつもり? そんなこと、よその家でもしちゃ駄目」といちおう注意しても、
「どうせ俺なんか出世とは無縁だ、人の物だろうか何だろうが、着て やるだけで充分さ。あなたは以前こう言ったね、運がむいてきたら俺に糸織の着物をこしらえてくれるって。本当?」などと真面目な顔つきで聞かれてしまう。
「ええ、きっと喜んでこしらえるわよ、そうなれたらいくらでも。たけどあたしを見て、 こんな格好で禿げ旦那の着物だとかを縫ってなきゃいけない身の上よ。そんな願い、夢のなかでしか叶えてあげられそうにない」
そう言って笑ってみたら、
「いいんだ、出来ない時にこしらえてくれなんて無理は言わない。そりゃもちろん運の向いた時の話さ。俺は約束だけでも満足だよ。こんな野郎が糸織ぞろえを着たところで冗談にもならないしね」と彼は淋しそうに笑う。
「なら吉ちゃん、あんたが偉くなった時には私にも何かいいことしてくれる?その約束も決めとかなきゃね」勇気づけようとしてそんなふうに述べ、微笑むが、
「生憎、俺は間違っても出世なんかしない」などと返されてしまい、「何故?何故よ」と聞いてみても、
「何故でもさ。どこぞの誰かにうまい話をもちかけられたって、俺はこのまんまを望むよ。此処にこうしているのか好いし、傘屋の油引きが番好い。どうせ生まれた頃から盲縞の筒袖と三尺の出立ちだ、渋買いの時にでもくすねた銭で、吹き矢一本当たりを取って丁度の男さ。 あなたはもとが立派な人だというから、今に幸運が馬車に乗ってお迎えにあがりますよ。だけど妾になるとかそんなふうに言いたいわけじゃあないぜ、誤解しないで」と、彼は火なぶりをしながら自身の素性を歎くのみ。
「そうね、馬車の代わりに火の車でも来るのよ、胸を焦がすことばかりだから」
そう言ってお京はものさしを杖に振り返り、吉三の顔をただ見据えてみるほかない。
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