ゆく雲⑦

いよいよ桂次が郷里へ帰る日どりが決まり、親類縁者へのさまざまなお土産も買いそろえます。

上杉の隣家《となり》は何宗かの御梵刹《おんてら》(1)さまにて、寺内《じない》広々と桃桜いろいろ植《うゑ》わたしたれば(2)、此方《こなた》の二階より見おろすに、雲は棚曳《たなび》く天上界に似て(3)腰ごろもの観音さま(4)濡《ぬ》れ仏(5)にておはします御《おん》肩のあたり、膝《ひざ》のあたり、はらはらと花散りこぼれて、前に供へし樒《しきみ》の枝につもれるもをかしく、下ゆく子守りが鉢巻(6)の上《う》へ、しばしやどかせ春のゆく衛《ゑ》(7)と舞ひくるもみゆ。かすむ夕べの朧月《おぼろづき》よに、人顔ほのぼのと暗く成りて、風少しそふ寺内の花をば、去歳《こぞ》も一昨年《おととし》もそのまへの年も、桂次此処に大方《おほかた》は宿を定めて、ぶらぶらあるきに立ならしたる(8)処なれば、今歳この度、とりわけて珍らしきさまにもあらぬを、今こん春(9)はとても立かへり(10)蹈《ふむ》べき地にあらずと思ふに、ここの濡れ仏さまにも中々の名残をしまれて、夕げ終りての宵々《よひよひ》、家を出《いで》ては御寺参り殊勝に、観音さまには合唱を申て(11)、「我が恋人のゆく末を守りたまへ」と。お志しのほどいつまでも消えねば宜《よ》いが(12)

(1)てら。寺院。ぼんさつ。
(2)境内のあたり一面に植えてあるので。
(3)桃や桜の花が満開の様子は、雲のたなびく極楽浄土に似て。芭蕉の句に「花の雲鐘は上野か浅草か」
(4)上半身裸で腰に衣をまとった観音菩薩像。
(5)野外に置かれている仏像。
(6)背負った赤ん坊の口に髪の毛が入らないように後ろの髪を包み込むため、子守が鉢巻するときはふつう前の方で結ぶ。
(7)散ってゆく花びらを擬人化している。
(8)地面を平らにするほど行き来する。
(9)来年の春。
(10)もどって来て。
(11)合掌(手を合わせて拝む)をいたしまして。
(12)作者の感想を述べている。一葉がしばしば用いる手法。     下

我れのみ一人のぼせて耳鳴りやすべき。桂次が熱ははげしけれども、おぬひと言ふもの木にて作られたる(13)やうの人なれば、まづは上杉の家にやかましき沙汰《さた》(14)もおこらず、大藤村にお作が夢ものどかなるべし。
四月の十五日、帰国に極《き》まりて、土産物など折柄(15)日清《につしん》の戦争画、大勝利の袋もの(16)ぱちん(17)、羽織の紐《ひも》、白粉《をしろい》、かんざし、桜香《さくらか》の油(18)、縁類広ければ、とりどりに香水、石鹸《しやぼん》の気取りたるも買ふめり。おぬひは桂次が未来の妻にと、贈りものの中へ、薄藤色の襦袢《じゆばん》の襟《ゑり》に白ぬきの牡丹花《ぼたんくわ》(19)の形《かた》あるをやりけるに、これを眺めし時の桂次が顔、「気の毒らしかりし」と後《あと》にて下女の竹(20)が申しき。
桂次がもとへ送りこしたる写真はあれども(21)、秘しがくしに取納めて人には見せぬか、それとも人しらぬ火鉢の灰になり終りしか、桂次ならぬもの知るによしなけれど、さる頃はがきにて処用と申こしたる文面は男の通り(22)にて名書きも六蔵の分(23)なりしかど、手跡大分あがりて見よげに成りしと父親の自まんより、娘に書かせたる事論なしとここの内儀が人の悪き目にて睨《にら》みぬ。

(13)まるで人情を解さない。『枕草子』七に「思はむ子を法師になしたらむこそ心苦しけれ。ただ木の端などのやうに思ひたるこそいといとほしけれ」とある。
(14)恋愛事件。
(15)明治27(1894)年7月から翌28年4月にかけて日本と清国の間で行われた日清戦争のころ。 日本が勝利し、大陸への最初の足がかりをつくった。「ゆく雲」は、講和条約が調印された直前の28年4月上旬に書き上がっている。
(16)大勝利祝して売り出された、密封した袋に入った運だめしの商品。
(17)帯留めの両端につける金具。金具を合わせてとめるときに発する音に由来する。 
(18)上野車坂下(東京都台東区上野7丁目)の名物だった堺屋の鬢付(びんつけ)油。
(19)染色しないで白く残した牡丹の花の模様。
(20)「竹」は、下女の呼び名。本名は別にある。
(21)お作の写真。
(22)男子用の書簡文体。
(23)六蔵の筆跡。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・多和田葉子]から

上杉家の隣は何宗かのお寺で、広々としたところに桃や桜などいろいろ植えてあるので、二階から見下ろすと雲のたなびく天上界のようで、腰衣を着た観音像か雨で濡れ仏となった肩のあたり膝のあたりに、はらはら と花が散りこぼれて、前に供えた隙にそれが積もるのが美しく、下を行く子守りの鉢巻の上にも花びらがまるで、しばらく宿を貸してくれとでも言いたげに舞い落ちてくるのも見え、かすむ夕暮れの朧月夜に人の顔もほのぼのと翳り、風の少し吹く寺の中の花を去年もおととしもその前の年も、桂次は大抵はこの上杉家を宿にして、ぶらぶら散歩し立ち寄ったところなので、今年がとりわけ珍しくすばらしい眺めだというわけではないのに、この次の春はとても帰って踏むことのできる土地ではないのだと思うと、濡れ仏もなかなか名残り惜しく、夕食が終ってから宵に家を出ては、お寺参りをし、観音像には手を合わせて、自分の恋人のゆく末を守ってほしい、と拝んだ、その志がいつまでも消えないといいのだが。

     下

自分だけ一人のぼせて耳鳴りがするのか、桂次の熱は激しいけれども、お縫というのは木で作られたような人間なので、上杉家にはまわりのやかましくなるような恋愛沙汰も起らす、大藤村にいるお作が見る夢ものどかなものだろう、四月十五日に帰国することに決まって、お土産は、日清戦争の戦争画、大勝利の袋物、帯留めの金具、羽織の紐、白粉(おしろい)、かんざし、桜香(さくらか)という小間物屋の油など、縁者親類が多いので、それぞれに香水や石鹸など気のきいた物を買って、お縫は桂次の未来の妻にと贈り物の中に薄藤色の襦袢の襟に白ぬきの牡丹花の形のあるのを持たせたが、これを見た時の桂次の顔は見ていてこちらが気のになったと後になって下女の竹が言っていた。

桂次の元へ送ってよこしたお作の写真はあるが、こっそり隠して人には見せないのか、人知らぬうちに火鉢の灰になってしまったのか、桂次以外の者の知るよしもないが、ある時ハガキで所用といってよこした文面は男のもので宛名も六蔵の字であったけれども、手習いが だいぶ上手になって人に見せても恥かしくない字になったという父親が自慢して娘に書かせたに違いないと、ここの奧様が人の悪い目でにらんだが、

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