ゆく雲⑤

郷里へ帰ることになったら、彼女はどんなふうに思うだろう。桂次は、心を寄せるお縫の気持が気にかかります。

お縫《ぬい》とてもまだ年わかなる身の、桂次が親切はうれしからぬに非《あら》ず。「親にすら捨てられたらんやうな我が如《ごと》きものを、心にかけて可愛《かわい》がりて下さるは辱《かたじ》けなき事」と思へども、桂次が思ひやりに比べては、遥《はる》かに落つきて冷やかなる物なり。
おぬひさむ(1)、我れがいよいよ帰国したと成つたならば、あなたは何と思ふて下さろう。朝夕の手がはぶけて、厄介が減つて、楽になつたとお喜びなさろうか、それとも折ふしは、あの話し好きの饒舌《おしやべり》のさわがしい人が居なくなつたで、少しは淋しい位に思ひ出して下さろうか。まあ何と思ふてお出《いで》なさる」
とこんな事を問ひかけるに、
「仰《おつ》しやるまでもなく、どんなに家中《うちじう》が淋しく成りましよう。東京《ここ》にお出あそばしてさへ、一ト月も下宿に出て入らつしやる頃は日曜が待どほで、朝の戸を明けると、やがて御足おとが聞えはせぬかと存じまする物を、お国(2)へお帰りになつては容易に御出京もあそばすまじければ、又どれほどの御別れに成りまするやら。それでも鉄道が通ふやうに成りましたら(3)、度々御出《おいで》あそばして下さりませうか、そうならば嬉しけれど」
と言ふ。
「我れとても行きたくてゆく故郷《ふるさと》でなければ、此処《ここ》に居られる物なら帰るではなく、出て来られる都合ならば、又今までのやうにお世話に成りに来まする。成るべくはちよつとたち帰りに直ぐも出京したきもの」
と軽くいへば、
「それでもあなたは一家の御主人さまに成りて、采配《さいはい》(4)をおとりなさらずは叶ふまじ(5)。今までのやうなお楽の御身分ではいらつしやらぬ筈《はづ》」
と押へられて、
(1)おぬいさん。桂次の呼びかけ。以下、遠まわしに縫への告白を試みている。
(2)出身地、生国。
(3)東京と山梨方面を結ぶ中央本線の笹子トンネルは、明治29(1896)年12月に建設開始、明治35年7月に貫通、翌36年2月に開業(大月 - 初鹿野間)している。この小説が発表された明治28年ごろは開業前で、桂次の故郷の大藤村から東京へ出るのは、かなり困難な旅だったと想像される。
(4)遠距離への合図や命令の伝達に用いられた紙の幣(しで)。軍陣で大将の指揮の持ち物として用いられた。白紙以外に、朱塗り、金、銀の箔置きなどがある。「采配をとる」は、先頭に立って、指揮、運営にあたること。
(5)ならないでしょう。
「されば誠に大難(6)に逢《あ》ひたる身と思《おぼ》しめせ。
我が養家は大藤村の中萩原《なかはぎはら》とて、見わたす限りは天目山《てんもくざん》(7)大菩薩峠《だいぼさつたうげ》(8)の山々峰々垣《かき》をつくりて、西南にそびゆる白妙《しろたへ》の富士の嶺《ね》は、をしみて面かげを示めさねども(9)、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚《うを》といひては甲府まで五里の道を取りにやりて、やうやう𩻩《まぐろ》の刺身が口に入《い》る位、あなたは御存じなけれどお親父《とつ》さんに聞て見給《みたま》へ、それは随分不便利にて不潔にて、東京より帰りたる夏分(10)などは我まんのなりがたき事もあり、そんな処に我れは括《くく》られて(11)、面白くもない仕事に追はれて、逢ひたい人には逢はれず、見たい土地はふみ難く、兀々《こつこつ》として(12)月日を送らねばならぬかと思《おもふ》に、気のふさぐも道理とせめては貴嬢《あなた》でもあはれんでくれ給へ、可愛さうなものでは無きか」と言ふに、
「あなたはさう仰しやれど母などはお浦山《うらやま》しき(13)御身分と申てをりまする」

(6)大きな災難。誇張したふざけた言いかただが、桂次の本音がうかがえる。
(7)山梨県中東部の山。業海の開基になる棲雲寺があり、その山号にちなんで名づけられた。武田勝頼が自刃した田野が南麓にあたり、そこから、最後の場所の意でも用いられる。
(8)山梨県塩山市と北都留郡小菅村の境にある峠。標高1897m。甲府と多摩川上流域とを結ぶ青梅街道の難所だった。
(9)惜しんで姿を見せないが。富士山を擬人的に表現している。
(10)夏の時分。夏のころ。帰郷直後の感想をいっている。
(11)しばりつけられて。
(12)物事に専心する、絶えずつとめる、じっと動かないさま。
(13)羨ましき、の当て字。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・多和田葉子]から

お縫もまだ年も若いので桂次の親切はうれしいようで、親にさえ捨てられたような自分のような者を心にかけて可愛がってくれるのはかたじけないとは思うけれども、桂次のお縫を想う心に比べると、はるかに落ちついて冷ややかで、「お縫さん僕がいよいよ帰国するとなったらあなたは何と思ってくれるのだろう、朝夕の手がはぶけて厄介が減って楽になったと喜ぶのだろうか、それとも時折はあの話し好きのおしゃべりのさわがしい人がいなくなったから淋しいくらいに思い出してくれるのだろうか、どう思っているんだい」、とそんなことを間いかけると、「言うまでもなくそれは家中が淋しくなるでしょう、あなたか東京にいる時でさえ一カ月も下宿に行ってしまっている時はロ曜日が待ちどおしく、朝の戸をあけるとやかて足音が聞こえないかと思うのを、故郷に帰ってしまえば容易に上京もできないでしょうから、またどれくらいの別れになるものやら、それでも鉄道が通うようになったら時々来てくださいますか、そうならば嬉しいのですけれど」、と言う。

「自分だって行きたくて行く故郷ではないからここに居られるものならば帰りたくもないし、また都合がつけば帰って来てお世話になりたい、なるべくならちょっと帰ってすぐに東京にもどりたい」、と軽く言うと、「それでもあなたは一家のご主人様になって采配を取るしかないのでしょう、今までのような気楽な身分でいることはできな いはすです」と押さえられて、「それならば誠に大きな災難にあった身と思ってくれ。私の養家のあるのは大藤村の中萩原というところで、見わたす限り天目山(てんもくざん)、大菩薩峠の山々や峰々が垣を作って、西南にそびえる白妙(しろたえ)の富士の嶺は惜しんで姿を現わさないけれども冬の雪おろしは遠慮なく身を切る寒さ、魚といえば甲府まで二十キロの道を取りにやって、やっと鮪の刺身が口に入るくらいで、あなたは知らないけれども、お父さんに聞いてごらん、それは随分不便で不潔な上地で、東京から帰った夏などは我慢できないこともあり、そんな場所に自分は縛られて面白くもない仕事に追われて会いたい人にも会えす見たい土地の土も踏めず、苦労して月日を送らなければならないのかと思えば気がふさぐのも当然だ。せめてあなたくらいはあわれんでくれ、可哀相なものではないか」、と一言うと、「あなたはそう言うけれど母などはうらやましい身分だと言ってます」、と答える。

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