ゆく雲④
きょうから「中」に入ります。主人公の桂次がのぼせあがっている、上杉のお縫の境遇や容貌、性格などが語られていきます。
中
まま母育ちとて誰《た》れもいふ(1)事なれど、あるが中にも(2)女の子の大方《おほかた》すなほに生《おひ》たつは稀《まれ》なり。少し世間並(3)、除《の》け物(4)の緩い子(5)は、底意地はつて馬鹿強情など、人に嫌はるる事この上なし。小利口なるは狡《ず》るき性根をやしなうて、面《めん》かぶり(6)の大変もの(7)に成《なる》もあり。しやんとせし気性ありて人間の質《たち》の正直なるは、すね者の部類にまぎれて(8)、その身に取れば生涯の損おもふべし。
(1)継母に育てられると性質がひねくれると誰もが言う。
(2)とりわけ。
(3)世間一般と程度が同じ。普通。
(4)仲間はずれ。
(5)気働きや動作が鈍く、ぐずぐずした子。
(6) 本性を包み隠して、表面おとなしそうに見せる。
(7)一筋なわではいかないもの。手におえないしたたかもの。
(8)すね者(強情を張るひねくれた者)の仲間に入れられて。
上杉のおぬひと言ふ娘《こ》、桂次がのぼせるだけ、容貌《きりよう》も十人なみ少しあがりて、よみ書き十露盤《そろばん》、それは小学校にて学びしだけのことは出来て、我が名にちなめる(9)針仕事は、袴《はかま》の仕立まで(10)わけなきよし。十歳《とを》ばかりの頃までは相応に悪戯《いたづら》もつよく、女にしてはと亡き母親に眉根《まゆね》を寄せさして、ほころびの小言(11)も十分に聞きし物なり。(9)「我が名」が「縫」であるので。
今の母は父親《てておや》が上役なりし人の隠し妻(12)とやらお妾《めかけ》とやら、種々《さまざま》曰《いは》くのつきし難物(13)のよしなれども、持《もた》ねばならぬ義理ありて引うけしにや、それとも父が好みて申受しか、その辺たしかならねど勢力おさおさ(14)女房天下(15)と申すやうな景色なれば、まま子たる身のおぬひがこの瀬に立ちて泣くは道理なり。
(10)袴の仕立ては難しく、力もいるので、男の仕立師のものとされていた。
(11)おてんばで着物にほころびを作ったため、母に小言をいわれた。
(12)情婦。愛人。
(13)やっかいな事情のある困りもの。
(14)をさをさ。めったに、なかなかどうして。「勢力をさをさあなどりがたく」などと下に否定語をともなうのが常だが、ここでは省略している。
(15)かかあ天下。
もの言へば睨《にら》まれ、笑へば怒られ、気を利かせれば小ざかしと云ひ、ひかえ目にあれば鈍な子と叱《し》かられる、二葉の新芽(16)に雪霜のふりかかりて(17)、これでも延びるかと押へるやうな仕方に、堪《た》へて真直ぐに延びたつ事人間わざには叶《かな》ふまじ、泣いて泣いて泣き尽くして、訴へたいにも父の心は鉄《かね》のやうに冷えて、ぬる湯一杯たまはらん情もなきに、まして他人の誰《た》れにか慨《かこ》つべき(18)。
月の十日に母《はは》さまが御墓《おんはか》まゐりを谷中《やなか》(19)の寺に楽しみて、しきみ(20)線香それぞれの供へ物もまだ終らぬに、母さま母さま私を引取つて下されと石塔に抱《いだ》きつきて遠慮なき熱涙、苔《こけ》のしたにて聞かば石もゆるぐべし(21)。
(16)種子が発芽したときの2枚の子葉を、幼いお縫の姿に喩えている。
(17)せっかんする後妻のむごい様子を喩えている。
(18)誰に愚痴をこぼせるだろうか。
(19)現在の台東区の地名。谷中墓地があり、寺も多い。
(20)シキミ科の2~15mの常緑の樹木。仏壇や墓に供えたり、葬式の花に最も普通に使われるために〈花の木〉と呼ばれることも多い。
(21)苔のむす墓の下で、亡き母が聞いたら娘を思いやる嘆きで墓石も動くことだろう。芭蕉の「塚も動け我が泣く声は秋の風」を踏まえているとみられる。
井戸がはに手を掛て水をのぞきし事(22)三四度に及びしが、つくづく思へば無情《つれなし》とても父様《ととさま》は真実《まこと》のなるに、我れはかなく成りて(23)、宜からぬ名(24)を人の耳に伝へれば、残れる耻《はぢ》は誰《た》が上ならず、勿躰《もつたい》なき身の覚悟(25)、と心の中《うち》に詫言《わびごと》して、どうでも死なれぬ世に生中《なまなか》目を明きて(26)過ぎんとすれば、人並のうい事つらい事、さりとは(29)この身に堪へがたし、一生五十年めくらに成りて(30)終らば事なからんとそれよりは一筋に母様の御機嫌(31)、父が気に入るやう一切この身を無いものにして勤むれば家の内なみ風おこらずして、軒ばの松に鶴が来て巣をくひはせぬか(32)、これを世間の目に何と見るらん、母御は世辞上手にて人を外らさぬ甘《うま》さあれば、身を無いものにして闇《やみ》をたどる(33)娘よりも、一枚あがりて(34)、評判わるからぬやら。(22)井戸に身を投げて死のうとしたこと。
(23)死んで。
(24)よくない名。つまり、自殺した娘というレッテルのついたわが名。
(25)(父親に)ふとどきなわが身の覚悟。自殺しようとしたことを指す。
(26)はっきり本当のことを見きわめられるものとして。
(29)ほんとうに。まあ。西鶴の出典世間胸算用に「さりとは恐ろしの人心(ひとごころ)ぞかし(ほんとうに恐ろしいのは人間の心である)」。
(30)見ても見えないふりをして。
(31)ご機嫌うかがい。
(32)軒端の松に鶴が来て巣をつくることをしないだろうか、するだろう。松に鶴の巣ごもりは吉兆とされた。
(33)表面に出ず、すべてに控えめに生きていることを指す。「めくらになりて」を受ける。
(34)番付(評価)が一枚上がって。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・多和田葉子]から
中
継母に育てられたのではろくなことはない、と誰もが言うけれども 、その中でも女の子が素直に育つのは稀なこと、少し平凡で除け者になるようなテンポの遅い子は、底意地張って馬鹿強情などと言われ人に嫌われるし、小利口な子はするい性根を養なって仮面をかぶった上辺だけの大物になるのもいるし、気性がしゃんとして性質が正直なのは、すねた者の部類にまぎれて本人の身にとっては生涯の損をすることになる。上杉のお縫という娘は、桂次がのぼせるだけあって容貌も人並み以上、読み書きそろばんは小学校で学んだだけのことはでき、自分の名前に縁のある縫い物は、袴の仕立てまでわけなくやってみせ、十歳くらいまではそれなりによく悪戯もして女なのにと亡くなった母が眉をひそめるほどで、着物にほころびを作って小言も充分聞かされた。 今の母は父親の上役だった人の隠し妻だったともお妾だったとも言われ、様々のいわくつきの難物だということだが、妻に持たなければならない義理があって引き受けたのか、それとも父が好んで申し受けたのか、その辺は確かではないが、勢力が強く女房天下というような景色なので、継子であるお縫がこのような瀬に立たされて泣くのは当然、物を言えば睨まれ、笑えば怒られ、気を利かせれば小ざかしいと言われ、ひかえ目にすれば鈍いと叱られる。二葉の新芽に雪霜が降りかかって、これでも伸びるかと押さえるような仕方に堪えて真直ぐに伸びるのは人間業ではない。
泣いて泣いて泣き尽くして、訴えたくても父の心は鉄のように冷えて、 ぬるい湯を一杯くれるほどの情もないのに、まして他人の誰に愚痴を言えばいいのか、月の十日に谷中の寺に母の墓参りをするのを楽しみにし、樒(しきみ)や線香などのお供えもまだ終らないうちに、母様、母様私を引き取ってください、と石塔に抱きついて遠慮なく熱い涙、それを苔の下で母が聞いたら墓石もゆらぐだろう。
井戸の縁に手を掛けて水をのぞき込んだことも三、四度あるが、 つくづく考えてみると情がなくても父親は真実の父、自分が亡くなってよくない噂が人の耳に伝われば、残った恥は誰の上でもない父の上に集まる、自分にはぜいたくすぎる身の覚悟だと心の中でわびて、どうしても死ねない世を、生はんかに目をあけて過ごそうとすれば、人並みに憂い事つらい事がこの身に堪えがたく、 一生五十年盲目になって終れば何事もないだろうにと、それからは一筋に母親のご機嫌をうかがい、父の気に入るように一切自分の身を無いものにして勤めると、家の内に波風がたたず、すべてめでたく収まることもあるだろうが、 これを世間の目はどう見ているのだろう、母はお世辞が上手で人の注意を自分からそらさぬようにするため口から甘い汁を出したりするので、身を無いものにして闇をたどる娘よりも一枚うわてで 、評判は悪くないらしい。
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