ゆく雲③

 桂次がお縫いの出会った際のできごとなどが語られていきます。

上杉といふ苗字《めうじ》をば宜いことにして大名の分家(1)と利《き》かせる見得ぼうの上なし(2)、下女には奥様といはせ(3)、着物は裾《すそ》のながいを引いて、用をすれば肩がはるといふ、三十円どり(4)の会社員の妻がこの形粧《げうそう》(5)にて繰廻しゆく(6)家の中《うち》おもへばこの女が小利口の才覚ひとつにて、良人《おつと》が箔《はく》の光つて見ゆる(7)やら知らねども、失敬なは野沢桂次といふ見事立派の名前ある男を、かげに廻りては家の書生がと安々(8)こなされて、御玄関番同様にいはれる事馬鹿らしさの頂上なれば、これのみにても寄りつかれぬ価値《ねうち》はたしかなるに、しかもこの家《や》の立はなれにくく、心わるきまま(9)下宿屋あるきと思案をさだめても二週間と訪問《おとづれ》を絶ちがたきはあやし(10)
(1)米沢藩主の上杉家のことを指している。「華族」と呼ばれる特権階級に位置づけられていた。
(2)みえを張るにはこの上ない。
(3)東京のふつうの家では「御新造」と呼ばれていた。
(4)月給が30円。
(5)ふつうは「形相」と書くが、飾り立ててみえを張る意を込めて「粧」を用いたのか?
(6)やりくりしていく。
(7)世間に認められて高く評価される。
(8)いとも容易く。
(9)不愉快なので。
(10)訪問をやめられないのは、不思議なことだ。作者が口をさしはさんで気を持たせていく。

十年ばかり前にうせたる先妻の腹に(11)、ぬひと呼ばれて、今の奥様には継《まま》なる娘《こ》あり、桂次がはじめて見し時は十四か三か(12)唐人髷《とうじんまげ》(13)に赤き切れかけて、姿はおさなびたれども母のちがふ子は何処やらをとなしく見ゆるものと気の毒に思ひしは、我れも他人の手にて育ちし同情を持てばなり、何事も母親に気をかね、父にまで遠慮がちなれば自づから詞《ことば》かずも多からず、一目に見わたした処では柔和《おとな》しい温順《すなほ》の娘といふばかり、格別利発ともはげしい(14)とも人は思ふまじ、父母そろひて家の内に籠《こも》りゐにても済むべき娘が、人目に立つほど才女など呼ばるるは大方お侠《きやん》(15)飛びあがり(16)の、甘やかされの我ままの、つつしみなき高慢より立つ名なるべく、物にはばかる心ありて万《よろづ》ひかえ目にと気をつくれば、十が七に見えて三分の損はあるものと桂次は故郷《ふるさと》のお作が上まで思ひくらべて、いよいよおぬひが身のいたましく、伯母が高慢がほはつくづくと嫌やなれども、あの高慢にあの温順《すなほ》なる身にて事なく仕へんとする気苦労を思ひやれば、せめては傍《そば》近くに心ぞへをも為《な》し(17)、慰めにも為りてやりたしと、人知らば可笑《をかし》かるべき自《うぬ》ぼれも手伝ひて、おぬひの事といへば我が事のように喜びもし怒《いか》りもして過ぎ来つるを、見すてて我れ今故郷《こきよう》にかへらば残れる身の心ぼそさいかばかりなるべき、あはれなるは継子の身分にして、俯甲斐《ふがひ》ないものは養子の我れと、今更のやうに世の中のあぢきなき(18)を思ひぬ。

(11)お縫は、実母を亡くした娘として設定されている。
(12)桂次が「はじめてこの家へ来たりしは十八の春」からすると、お縫は四、五歳下。「桂次より六つの年少」とすれば、お縫はお作より一、二歳上、ということになる。
(13)少女の髪の一つの結いかた。桃割れと銀杏返しをいっしょにしたような形で、ふっくらと形づくり、元結のかわりに髪の毛で十文字に結う。江戸末期から流行った。=写真
(14)気性が激しい。
(15)「きゃん」は「侠」の唐音。活発すぎて軽はずみな娘、おてんば。
(16)とっぴな行動をする人。跳ね上がり。
(17)気をつけてもやって。
(18)つまらない。思うようにならない。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・多和田葉子]から

上杉という苗字をよいことにして自分の家は大名の分家だなどとこの上なく見栄を張り、伯母は下女には自分のことを奥様と呼ばせ、裾の長い着物を引きずって歩いて、用をするとすぐ肩が張ると言う。たかが月給三十円の会社員の妻がこの調子で家の中をやりくりして行けるのは確かにこ の女の才覚のおかげで、それで良人に箔が付くのかもしれないが、失礼なのは野沢桂次という立派な名前のある男を、蔭では、うちの書生がと安っぽく呼ぶことで、門番か何かのように言われるので馬鹿らしさが頂点に達し、それだけでも家に寄りつかなくなるだけの理由はあるのだが、だからと言ってこの家から立ち去ることもできず、気分がすっきりしないままに、下宿住まいをしようと決めても、二週間もすればまた訪ねていってしまう。

十年ばかり前に亡くなった先妻の腹から生まれた子で縫と呼ばれる、今の奥様にとっては継子になる子がいる。桂次が初めてこの子を見た時は十四歳か十三歳で、髪は真中の上の方を十文字にかがって結い、そこに赤い布をかけていて、姿は幼いけれども継母のいる子はどことなく大人びて見えるものだと気の毒に思ったのは、自分も他人の手で育てられたので同情したわけだが、この子は何事をするのにも母親に気がねして、父親に対してまで遠慮がちになり、自然と言葉数もへって、ちょっと見たところはおとなしくて素直な娘というだけで特に利発だとも気性が激しいとも人は思わないだろう。父も母もそろっていて家の中にこもっていればすむような娘が他人の目に立つほど才女だなどと呼ばれるのは大方は、おキャンで軽はずみで、甘やかされた我ままで、つつしみがなく、高慢なために立つ評判であって、物事にはばかる心があり万事ひかえ目にと気をつける娘は、十が七に見えて三割の損はあるものと桂次は故郷のお作のことまで思い出し比べて、いよいよお縫の身が痛ましくなり、伯母の高慢な顔を見るのはつくづく嫌だけれども、あの高慢な伯母にあの素直な身で何でもない事のように仕えようとする気苦労を思いやると、せめて近くにいて心をそえ、慰めてもやりたいものだと、もし人が知ったらおかしがるだろううぬぼれも手伝って、お縫のこととなると自分のことのように喜んだり怒ったりして過ごしてきたのに、そのお縫を見捨てて今自分が故郷に帰ってしまったら、残された 身の心細さはどれほどのものだろう、可哀相なのは継子の身分、腑甲斐ないのは養子の自分と、今更のように世の中の味気のなさを思うのだった。

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