ゆく雲②
主人公の桂次が、甲州大藤村中萩原の造酒屋の養子となっったいきさつや、東京へ遊学しての暮らしぶりなどが語られていきます。
家に生抜《はへぬ》きの我れ実子にてもあらば、かかる迎へのよしや十度十五たび来たらんとも、おもひ立ちての修業なれば一ト廉《かど》の学問を研《みが》かぬほどは不孝の罪ゆるし給《たま》へとでもいひやりて、その我ままの徹《とほ》らぬ事もあるまじきなれど、愁《つ》らきは養子の身分と桂次はつくづく他人の自由を羨《うら》やみて、これからの行く末をも鎖りにつながれたるやうに考へぬ。
七つのとしより(1)実家の貧を救はれて、生れしままなれば素跣足《すはだし》の尻《しり》きり半纏《ばんてん》(2)に田圃《たんぼ》へ弁当の持はこびなど、松のひで(3)を燈火《ともしび》にかへて草鞋《わらんじ》うちながら馬士歌《まごうた》(4)でもうたふべかりし身を、目鼻だちの何処《どこ》やらが水子《みづこ》(5)にて亡《う》せたる総領によく似たりとて、今はなき人なる(6)地主の内儀《つま》に可愛《かあい》がられ、はじめはお大尽の旦那と尊《たつと》びし人を、父上と呼ぶやうに成りしはその身の幸福《しやわせ》なれども、幸福《しやわせ》ならぬ事おのづからその中《うち》にもあり、お作《さく》といふ娘の桂次よりは六つの年少《としした》(7)にて十七ばかりになる無地の(8)田舎娘《いなかもの》をば、どうでも妻にもたねば納まらず、国を出《いづ》るまではさまで不運の縁とも思はざりしが、今日この頃は送りこしたる写真をさへ見るに物うく、これを妻に持ちて山梨の東郡《ひがしごほり》(9)に蟄伏《ちつぷく》(10)する身かと思へば、人のうらやむ造酒家《つくりざかや》の大身上《おほしんしよう》は物のかずならず(11)、よしや家督をうけつぎてからが、親類縁者の干渉きびしければ、我が思ふ事に一銭の融通も叶《かな》ふまじく、いはば宝の蔵の番人にて終るべき身の、気に入らぬ妻までとは弥々《いよいよ》の重荷なり。
(1)ここから、桂次の幼いころからの回想。一葉も「七つといふときより草々紙といふものを好みて、手まり、やり羽子をなげうちてよみけるが」(明治26年8月10日付日記)と回想している。
(2)丈が短く腰のあたりで裾を切り取ったようになっているはんてん。
(3)松の根株で、特に樹脂分の多いもの。幹の伐採後放置された年数の長いものほど良質とされた。松根油、松煙の原料になり、灯火、燃料などに用いられた。
(4)馬子唄。馬を売買する博労や旅人や荷物を馬にのせて運ぶ馬子が、馬をひきながらうたう。
(5)生まれてあまり日のたたない赤子。生後まもなくして死んだ子をいう場合が多い。
(6)桂次は養母を亡くし、養父だけが健在。後に出てくるお縫の身の上と照応される。
(7)後に桂次は二十二歳とあるところからすると、お作は「五つの年少」となる。
(8)まったくの。もともとは全体が同じ色で模様がないこと。
(9)かつての山梨県東山梨郡。郷里である現在の甲州市北西部の旧大藤村を指している。
(10)ひそんでいる、世を隠れてとじこもる。本来は、蛇や蛙が冬の間地中にこもる意。
(11)数え立てるほどのものではない。
うき世に義理といふ柵《しがら》み(12)のなくば、蔵を持ぬしに返し長途の重荷(13)を人にゆづりて、我れはこの東京を十年も二十年も今すこしも離れがたき思ひ、そは何故《なにゆゑ》と問ふ人のあらば切りぬけ立派に言ひわけの口上もあらんなれど、つくろひなき正《しよう》の処(14)ここもとに(15)唯《ただ》一人すててかへる事のをしくをしく、別れては顔も見がたき後《のち》を思へば、今より胸の中もやくや(16)として自《おのづか》ら気もふさぐべき種なり。桂次が今をるここ許《もと》は養家の縁に引かれて伯父伯母といふ間がら也《なり》、はじめてこの家《や》へ来たりしは十八の春、田舎縞《いなかじま》(17)の着物に肩縫あげ(18)をかしと笑はれ、八《や》つ口《くち》(19)をふさぎて大人の姿にこしらへられしより二十二の今日までに、下宿屋|住居《ずまゐ》を半分と見つもりても出入り三年(20)はたしかに世話をうけ、伯父の勝義《かつよし》が性質の気むづかしい処から、無敵に(21)わけのわからぬ強情の加減、唯々女房にばかり手やはらかなる可笑《をか》しさも呑込《のみこ》めば、伯母なる人が口先ばかりの利口にて誰《た》れにつきても根からさつぱり親切気のなき、我欲の目当てが明らかに見えねば笑ひかけた口もとまで結んで見せる現金の様子(22)まで、度々の経験に大方は会得《えとく》のつきて(23)、この家《や》にあらんとには金づかひ奇麗に損をかけず、表むきは何処《どこ》までも田舎書生の厄介者が舞ひこみて御世話に相成るといふこしらへ(24)でなくては第一に伯母御前《ごぜ》(25)が御機嫌むづかし。
(12)せき止める、引き止めるもの。
(13)ここでは、妻となるはずのお作のこと。
(14)言いつくろわない本当のところ。
(15)ここに。桂次のお縫への愛着があらわれている。
(16)もやもや、むしゃくしゃ。憂悶のさま。
(17)手織りの質素な縞木綿。
(18)肩上げ。子供の着物は大きめに仕立てて、直しをして寸法を調節するためにするのが一般的。そのため、肩や腰の身頃をつまんで糸で縫い上げておくことをいう。
(19)着物の脇あけのこと。付け紐を通すため、子どもの着物は脇をあける。
(20)足かけ三年。
(21)はなはだしく。
(22)利益にになることや好意を見せたときは笑顔を浮かべて喜ぶが、逆の場合は怒ったり、いやな顔つき相手にすること。
(23)理解して。のみこんで。
(24)体裁。
(25)伯母さま。尊大ぶった様子をこう表現した。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
その家に生まれた実の子であれば、 このような手紙が十回や十五回来ても、「自分で決めて勉強を始めたのだから一応の学問を身につけるまでは親不孝の罪を許してくれ」、とでも書いて、その我ままが通らないこともないだろうけれど、養子の身分はつらい、と桂次は他人の自由をうらやみ、 これから先の将来を鎖につながれたように感じた。
七歳の時に貧乏な実家からもらわれていって、そのまま行けばはだしで尻きり半纏を着て田んぽに弁当を運んだり、夜は松の根を割ったもの に火をつけて草鞋(わらじ)をうちながら馬子歌でも歌っていたような身分なのに、目鼻立ちが生まれてすぐ死んでしまった長男とどこか似ているからと言って地主の今は亡き妻に可愛がられ、初めは旦那と呼んで敬っていたその人を父上と呼ぶようになったのは幸福であるが、幸福とは言えないようなことがその中にもあり、桂次より六つ年下で十七歳くらいのお作という全くの田舎娘をどうしても妻にもらわなければならなくなり、国を出るまではそれほど不運な縁だとも思わなかったが、この頃は送ってくる写真を見ただけで気が重くなり、 こういう妻を持って山梨県の東郡(ひがしごおり)にひっそり暮らすのが自分の運命かと思うと、人にうらやましがられる造酒業者の財産などは大した物とも思えず、たとえ家を継いでも親類縁者の干渉がきびしくて自分が思うようには一銭の金も使えないだろうし、言ってみれば宝の蔵の番人の身で一生終ってしまうと思うと、気に入らない妻のことがますます心の重荷となって、世の中に義理というしがらみがないならば、財産を持ち主に返して、長い人生の重荷となる妻も人にゆずって、自分はこの東京を十年も二十年も少しも離れずにいたいという思いがある。どうしてだと人に聞かれれば立派な言い訳を言ってみせることができないわけではないけれども、正直に隠し事せずに言うと、ここに一人捨てて帰るのが口惜しい娘がいて、別れて顔を見られなくなった時のことを考えただけで今から胸の中がうつうつとして、自然と気がふさぐ原因にもなっている。
桂次が今いるこの家は、養父の親戚で、伯父伯母の間柄であり、初めてこの家へ来たのは桂次が十八歳の春のこと、自家製の手織り縞の着物に肩あげが田舎臭いと笑われて、八つ口をふさいで大人っぽいスタイルにしてもらってから二十二歳になった今日の日までに半分は別の家に下宿住まいをしたと見積もっても少なくとも三年間は確かに世話を受けているし、伯父の勝義の性格が難しいことや、人にかまわず強情を通すこと、それでも女房にだけはやさしいというようなおかしさを呑み込んでしまい、また伯母という人が口先ばかり上手くて、誰に対しても心底からは親切でないこと、自分の私欲が満たされそうにないと分かると微笑みかけた口元をぎゅっと閉めてしまう伯母の現金さも経験を積むうちにだいたい分かってきて、この家にいるつもりならば、きれいなお金の使い方をして損をかけないようにして、表向きはどこまでも田舎の厄介者の書生が舞い込んで来て世話になっている、という設定にしておかなければ、第一に伯母の機嫌を取ることはできない。
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