ゆく雲①
「ゆく雲」は、明治28年5月5日発行の『太陽』(第1巻5号)(博文館)に発表された。題名には、去っていった男の心や生のはかなさが暗示されているようだ。一葉自身、半井桃水と別れた後の、明治26年7月20日の日記に「忘られて、忘られはてゝ、我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし」と記している。 上
酒折《さかをり》の宮(1)、山梨の岡(2)、塩山《ゑんざん》(3)、裂石《さけいし》(4)、さし手《で》(5)の名も都人《ここびと》の耳に聞きなれぬは、小仏《こぼとけ》(6)ささ子《ご》(7)の難処《なんじよ》を越して猿橋《さるはし》(8)のながれに眩《めくる》めき、鶴瀬《つるせ》(9)、駒飼《こまかひ》(10)見るほどの里もなきに、勝沼《かつぬま》(11)の町とても東京《ここ》にての場末ぞかし。
(1)甲府市酒折町にある旧跡。日本武尊が、東征の帰途に立ち寄ったと伝えられ、日本武尊をまつる酒折神社がある。古事記(712)に「酒折宮(さかをりのみや)に坐しし時」。「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」(常陸国の新治・筑波を出て、ここまでに幾晩寝ただろうか)と家臣たちに歌いかけると答えられる家臣がおらず、身分の低い焚き火番の老人が「日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」(指折り数えてみますと九泊十日かかりました)と答歌。2人で1首の和歌を詠んだという伝説が後に連歌の発祥として位置づけられるようになった。
(2)山梨県の県名の発祥となった由緒ある地。山頂にあった鎮守社を、山麓の梨の木を伐り拓いた場所に遷したため山梨岡神社と称した。崇神朝の創立と伝えられる。能因に「甲斐が嶺に咲きにけらしな足引の山梨の岡の山梨の花」がある。
(3)山梨県甲州市にある山。古くは塩を産出。松樹が繁茂し、古くから豪族が居住し、濠をめぐらせた屋敷が残る。さし出の磯と並び称された甲斐の名所で、古今集に「しほの山さしでのいそに住む千鳥きみがみよをばやちよとぞなく〈よみ人しらず〉」がある。
(4)甲州市の字名。裂石(さけいし)と呼ばれる巨石があり、割れた巨石から観音さまが現れた、という伝説が残る。
(5)さし出の磯。川側から見ると突き出て(差し出て)いて、内陸にありながら海辺の磯のように見えるため名づけられた。
(6)小仏峠。武蔵・相模の国境となる甲州街道の難所。標高548m。
(7)笹子峠。山梨県中部、御坂(みさか)山地にある標高1096mの峠。甲州街道一の難所で、東麓には白野、阿弥陀海道、黒野田、北麓に鶴瀬などの宿場があった。
(8)山梨県大月市の桂川にかかる橋で、日本三奇橋の一つ。百済の渡来人が推古天皇の代にサルの渡河をみて架橋に成功したと伝えられる。江戸時代には甲州街道の要衝で、安藤広重の甲陽猿橋之図などで知られた。
(9)甲州街道の勝沼の東隣り、駒飼との間にあった宿駅。
(10)笹子峠の西麓の宿場で、峠への登降路の基点。鶴瀬の東南。
(11)甲州街道の鶴瀬と栗原の間の宿場町として発展。甲州葡萄の産地で、芭蕉に「勝沼や馬子も葡萄を食ひながら」の句がある。
甲府はさすがに大厦《たいか》高楼(12)、躑躅《つつじ》が崎《さき》(13)の城跡など見る処《ところ》のありとは言へど、汽車の便りよき頃にならば知らず(14)、こと更の馬車腕車《くるま》(15)に一昼夜をゆられて、いざ恵林寺《ゑりんじ》(16)の桜見にといふ人はあるまじ、故郷《ふるさと》なればこそ年々《としどし》の夏休みにも、人は箱根伊香保《いかほ》(17)ともよふし立つる(18)中を、我れのみ一人あし曳《びき》の山の甲斐《かひ》に峯《みね》のしら雲あとを消す(19)ことさりとは是非もなけれど、今歳《ことし》この度みやこを離れて、八王子に足をむける事(20)、これまでに覚えなき愁《つ》らさなり(21)。(12)大廈高楼。「廈」は屋根をふいた家、「楼」は二階建てかそれ以上の建築物のことで、大きく高い建物が立ち並んでいる様子をいう。
養父清左衛門《せいざゑもん》、去歳《こぞ》より何処其処《どこそこ》からだに申分ありて、寐《ね》つ起きつとの由《よし》は聞きしが、常日頃すこやかの人なれば、さしての事はあるまじと医者の指図などを申やりて、この身は雲井の鳥の羽がひ(22)自由なる書生の境界《けうがい》に、今しばしは遊ばるる心なりしを、先きの日、故郷《ふるさと》よりの便りに曰《いは》く、
(13)甲斐の城下町。甲府は甲斐府中の略で、1519年に武田信虎が石和(いさわ)から館を甲府市の北辺にあたる躑躅ヶ崎に移したことに始まり、信玄、勝頼まで三代の領国経営の本拠となった。
(14)当時開通していたのは、新宿—八王子間だけだった。
(15)人力車の別称。
(16)甲州市にある臨済宗妙心寺派の寺=写真=。山号は乾徳山。開創は1330(元徳2)年、開山は夢窓疎石、開基は二階堂道蘊。武田信玄や柳沢吉保の墓がある。1582(天正10)年に、織田信長勢の焼き打ちにあったとき、住職快川紹喜(かいせんじょうき)が「心頭を滅却すれば火もまた涼し」の言葉を残し、火中に死んだ。
(17)いずれもよく知られた温泉地。
(18)計画を立てる。
(19)古今集の「桜花さきにけらしなあしひきの山のかひより見ゆる白雲」(紀貫之)をふまえている。
(20)八王子以西は馬車や人力車を利用した。
(21)この物語のモチーフが暗示されている。
(22)空飛ぶ鳥のつばさ。
大旦那さまこと、その後の容躰《ようだい》さしたる事は御座なく候《さうら》へ共、次第に短気のまさりて我意《わがまま》つよく、これ一つは年の故《せい》には御座候はんなれど、随分あたりの者御機げんの取りにくく、大《おほ》心配を致すよし。私《わたくし》など古狸《ふるだぬき》(23)の身なれば、とかくつくろひて一日二日と過し候へ共、筋のなきわからずやを仰《おほ》せいだされ、足もとから鳥の立つ(24)やうにお急《せ》きたてなさるには大《おほ》閉口に候。この中《ぢう》(25)より頻《しきり》に貴君《あなた》様を御手もとへお呼び寄せなさりたく、一日も早く家督相続あそばさせ、楽隠居なされたきおのぞみのよし、これ然《しか》るべき事と御親類一同の御決義。私は初手から(26)貴君様を東京へお出し申すは気に喰はぬほどにて、申しては失礼なれど、いささかの学問などどうでも宜《よ》い事、赤尾《あかを》の彦(27)が息子のやうに気ちがひに成つて帰つたも見てをり候へば、もともと利発の貴君様にその気づかひはあるまじきなれど、放蕩《ほうたう》ものにでもお成りなされては取返しがつき申さず、今の分にて嬢さまと御祝言《ごしうげん》、御家督引つぎ最《も》はや早きお歳《とし》にはあるまじくと大《おほ》賛成に候。さだめしさだめしその地には遊《あそば》しかけ(28)の御用事も御座候はんそれ等を然るべく御取まとめ、飛鳥《とぶとり》もあとを濁ごすなに候へば、大藤《おほふぢ》の大尽《だいじん》(29)が息子と聞きしに野沢の桂次《けいじ》(30)は了簡《りようけん》の清くない奴、何処《どこ》やらの割前を人に背負《せよは》せて逃げをつたなどとかふいふ噂《うわさ》があとあとに残らぬやう、郵便為替にて証書面のとほりお送り申候へども、足りずば上杉さま(31)にて御立かへを願ひ、諸事清潔《きれい》にして御帰りなさるべく、金故《ゆゑ》に恥ぢをお掻《か》きなされては金庫の番をいたす我等が申わけなく候、前《ぜん》申せし通り短気の大旦那さま頻に待ちこがれて大ぢれに御座候へば、その地の御片つけすみ次第、一日もはやくと申納《おさめ》候。六蔵といふ通ひ番頭(32)の筆にてこの様の迎ひ状《ぶみ》いやとは言ひがたし。(23)比喩的に、経験を積んで、わるがしこくなった人。ここでは謙遜した言い回し。
(24)突然、身近で思いも寄らなかったことが起こることの比喩。
困ること、よわることを、誇張して言っている。桂次の帰郷を待つ気持があらわれている。
(25)このあいだじゅう。
(26)最初から。
(27)「赤尾」は甲州市の塩山に近いところにある地名。このあたりに多い姓でもある。「彦」は彦なにがしを略したもの。
(28)なさりかけ。「遊す」は「為(す)」の尊敬語。
(29)大藤村の大資産家。大藤村は現在の甲州市北西部で、一葉の両親の故郷。
(30)主人公。モデルは山梨郡竹森村(現・甲州市塩山竹森)出身の野尻理作といわれる。野尻は、酒造業も営む竹森村の地主の生まれで、明治20年に一葉の父則義が保証人となって上京し、東京帝国大学に入学するが、23年には中退し帰郷。25年には甲府で甲陽新報を創刊し、一葉はそこに春日野しか子の筆名で「経つくえ」を掲載している。
(31)血縁はないが桂次の伯父・伯母にあたる。
(32)自宅に住んで、毎日、主家に通勤する番頭。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・多和田葉子]から
東京の人はあまり耳にしたこともないだろうと思うが、酒折(さかおり)の宮、山梨の岡、塩山(えんざん)、裂石(さけいし)、さし手と いったようなところへ行ってみる、小仏や笹子の難所を越え、猿橋(さるはし)から眺める川の流れに目まいがするほどで、鶴瀬、駒飼などには見るほどの里もないけれど、勝沼の町にしても東京で言えば場末だし、甲府にはさすがに大きな立派な建物があり躑躅が崎の城跡などの名所が一応あるけれど、汽車の便がよいならまだしも、わざわざ馬車や人力車に一昼夜ゆられて恵林寺の桜を見に行くという人はまさかいないだろう。他の人たちが箱根、伊香保などに出かけていくのに、故郷だからというだけで毎年夏休みにひとり山梨に帰るのは仕方ないことではあるけれど、今年は東京を離れて八王子の方に向かうのが特につらく感じられる。
養父の清左衛門が去年からどこそこ体をこわして寝たり起きたりという生活をしているとは聞いてはいたが、普段は丈夫な人なのだから大したことはないだろうと思って医者の指図することなどを伝えておくだけで、自分は雲の合間を飛びかう鳥の翼のように自由な書生の身分でもう少し遊んでやろうというつもりでいたら、 この間故郷から便りが来て、大旦那の病状はその後特にどうということもないけれども、日々短気がひどくなり、我ままになり、これはひとつには年のせいなのかもしれないけれども、まわりの者にもなかなか機嫌を取ることができず、 それが心配です、と書いてある。
私のような古狸は何とか日々を過ごしているけれども、それでも筋のない無理を言われて 、足元からいっせいに鳥の飛び立つようにせかされるのにはうんざりで、この間からしきりとあなた様をお呼び寄せしたい様子、 一日も早く家をつがせ隠居して楽をしたいようで、これにはご親類 同が同意しています。私は初めから、あなた様を東京に出すことには反対で、こう言っては失礼ですが、少しくらい学問などしても仕方がないのだし、赤尾の彦の息子のように気がおかしくなって帰ってきた者も見ているし、もちろん利発なあなた様にはその気遣いはないけれども、もし放蕩息子にでもなられたら取り返しがつかないし、今の時点で許嫁と結婚して家を継いでも早過ぎるということはないでしょうから、私も大賛成です。
きっと東京ではやりかけた事などもあるだろうから、それを終らせて、飛ぶ鳥は後を濁すなに従って、「野沢の桂次は大藤村の大資産家の息子だと聞いていたが、了簡の清くない奴だ、他人の借りを人に背負わせて逃げた」、などという噂か後に残らないように、郵便為替で証書面の通りの額を送るけれども、もし足りなければ上杉様に立てかえてもらって、借金など全部返して帰るように。金のことで恥をかいては、金庫の番をまかされた私たちの申し訳が立たない。さっきも言ったように、短気の大旦那がしきりと待ちこがれてじれているから、東京の用が片付き次第一日も早く帰って来てほしい、と六蔵という通い番頭が手紙を書いてきたのだが、このような催促をされたら、嫌とは言えない。
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