にごりえ㉓

お初のくやしい思いが吐き出されます。

お初は口惜《くや》しく悲しく情なく、口も利かれぬほど込上《こみあぐ》る涕《なみだ》を呑込んで、
「これは私が悪う御座んした。堪忍《かんにん》をして下され。お力が親切で志してくれた(1)ものを捨てしまつたは重々悪う御座いました。成程お力を鬼といふたから私は魔王で御座んせう。モウいひませぬ、モウいひませぬ。決してお力の事につきてこの後《ご》とやかく(2)言ひませず、蔭《かげ》の噂《うはさ》しますまい故《ゆゑ》、離縁だけは堪忍して下され。改めて言ふまでは無けれど(3)、私には親もなし、兄弟もなし、差配(4)伯父さん(5)を仲人《なかうど》なり(6)なりに立てて来た(7)者なれば、離縁されての行き処とてはありませぬ。どうぞ堪忍して置いて下され。私は憎くかろうとこの子に免じて置いて下され、謝ります」とて手を突いて泣けども、
(1)子どもの太吉のことを思って。
(2)ああだこうだと。
(3)言うまでもないけれど。
(4)所有主にかわって貸家や貸地を管理する。大家。
(5)血縁ではない、よその年配の男性。お初の頼りない境遇を示している。
(6)里親。
(7)嫁に来た。

「イヤ、どうしても置かれぬ」
とてその後は物言はず壁に向ひて、お初が言葉は耳に入《い》らぬ体。「これほど邪慳《じやけん》の人(8)ではなかりしを」と女房あきれて、「女に魂を奪はるれば、これほどまでも浅ましくなる物か。女房が歎きは更なり(9)、遂《つ》ひには可愛《かわゆ》き子をも餓へ死させるかも知れぬ人、今詫びたからとて甲斐《かひ》はなし」と覚悟して、
「太吉、太吉」と傍へ呼んで、
「お前は父《とと》さんの傍と母《かか》さんと何処《どちら》が好い。言ふて見ろ」
と言はれて、
「我《おい》らはお父《とつ》さんは嫌い、何にも買つてくれない物」
真正直《まつしようぢき》をいふ(10)に、
「そんなら母さんの行く処へ何処へも一処に行く気かへ」
「ああ行くとも」
とて何とも思はぬ様子に、
「お前さん、お聞きか。太吉は私につくといひまする。男の子なれば(11)お前も欲しからうけれど、この子はお前の手には置かれぬ。何処までも私が貰つて連れて行きます。よう御座んすか、貰ひまする」
といふに、
「勝手にしろ、子も何も入らぬ、連れて行きたくば何処へでも連れて行け。家《うち》も道具も何も入らぬ、どうなりともしろ」
とて寐転《ねころ》びしまま、振向んともせぬに、
(8)無慈悲で荒々しい人。
(9)妻を嘆かせるのはもちろん。
(10)正直な気持ちをいう。
(11)長男なので。離婚する際には、男の子は父親、女の子は母親に付くというのが当時は一般的だった。

何の(12)、家も道具も無い癖に勝手にしろもないもの。これから身一つ(13)になつて、仕たいままの道楽なり何なりお尽しなされ(14)。もういくらこの子を欲しいと言つても、返す事では御座んせぬぞ、返しはしませぬぞ」と念を押して、押入れ探ぐつて何やらの小風呂敷(15)取出《とりいだ》し、
「これはこの子の寐間着《ねまき》の袷《あはせ》、はらがけと三尺(16)だけ貰つて行まする。御酒の上といふでもなければ(17)醒《さ》めての思案(18)もありますまいけれど、よく考へて見て下され、たとへどのやうな貧苦の中でも二人双《そろ》つて育てる子は長者の暮し(19)といひまする。別れれば片親、何につけても不憫《ふびん》なはこの子とお思ひなさらぬか。ああ腸《はらはた》が腐た人(20)は子の可愛さも分りはすまい。もうお別れ申ます」
と風呂敷さげて表へ出《いづ》れば、
「早くゆけゆけ」
とて、呼かへしてはくれざりし(21)

(12)売り言葉に買い言葉の感じで、肯定できない気持を表わしている。
(13)自分ひとり。
(14)やりたいことをみんなやりなさい。
(15)小さな風呂敷包み。
(16)三尺帯。鯨尺で約3尺(114センチ)ある一重まわしの帯で、木綿をしごいて用いる。職人が三尺手ぬぐいを帯代わりに使った。
(17)酒に酔った勢い言ったわけでもないから。
(18)酔いがさめてから考え直すこと。
(19)両親がそろって育てる子は、貧しくても、金持ちにひけをとらない幸福な生活だ。
(20)根性のくさった人。
(21)呼びもどしてはくれなかった。お初の悲運を愛惜している。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。


《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から

お初は、くやしく、悲しく、情けなく、ロもきけないほどこみあげてくる涙をのみこんで、「あたしがわるかったんです、かんにんしてください、おカか親切でくれたものを捨ててしまったのはほんとにあたしがわるかったんです、たしかに、お力を鬼といったからには、あたしは魔王かもしれません、もういいません、ええ、もういいません、けっしてこんご、お力のことはとやかくいいません、陰ロもたたきませんから、離縁だけはかんにんしてくたさい、あなたも知ってるとおり、あたしには親もないし兄弟もないし、差配のおじさんを仲人がわり里がわりにしてよめにきたんですから、離縁されたっていくところかないんです、どうかかんにんしてここにおいてください、あたしのことは贈くてもどうかこの子に免じて、ゆるしてくたさい、あやまります」と手をつい て泣くのである。

「いやどうしても出ていけ」
そういったきり、源七はもうものをいわない。壁にむかってだまりこくって、お初のいうことを聞こうともしない。むかしはこんなにじゃけんな人じゃなかったのにとお初は思うのである。女にたましいを奪われるとこんなにまであさましくなるものか、女房を泣かせるだけじゃない、かわいい子どもだってへいきで飢え死にさせるかもしれない、今自分がわびたところで、この先どうしたってやっていかれるものじゃないと、とうとうお初も覚語をきめた。
太吉、太吉とお初は子どもをそばへ呼んで、「おまえはおとうさんとおかあさんと、どっちかいいの、いってごらん」
「おいら、おとうちゃんはきらい、なんにも買ってくれないもの」と子どもはまっ正直にいった。
「そんならかあさんの行くとこへ、どこへでもいっしょに来るつもりだね」
「うん行くよ」

子どもはなんにも考えていない のである。
「あなたききましたか、太吉はあたしについてくるといってる、男の子だからあなたも欲しいでしょうが、この子はあなたのところに残しておけない、どこまでもあたしかもらってつれていきます、いいですか、もらいますよ」
「勝手にしろ、子どもも何もいらない、つれていきたかったらどこへでもつれていけ、家も道具も何もいらない、どうなりともしてくれ」
源七は寝ころかったまま、ふりむきもしない。
「まったく、家も道具もないくせに、勝手にしろもないもんだ、これから身ひとつになって、道楽でもなんでも、やりたい放題やるんですね、もういくらこの子をほしいといったって、返すわけにはいきませんよ、返しませんよ」

お初は押し入れの中をかきまわして、小さい風呂敷づつみを取り出した。
「この子の寝間着のあわせ、はらかけと三尺だけもらっていきます、お酒の上で のことじゃないから、さめてから考えなおすってこともないでしょうけど、あなた、よく考えてみてください、どんなに貧しくとも二親そろった子は長者の暮らしっていいますよ、今別れたら片親になるんです、何につけてもふびんなのはこの子ですよ、 いいえ、どうせ、はらわたのくさった人には、子どものかわいさなんてわからないんでしょうよ、さあ、もうお別れします」
風呂敷つつみをもってお初は外に出た。
「早くいっちまえ」
いいすてて、源七は、呼びかえしもしなかった。

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