にごりえ㉒

源七とお初が言い合いになり、「離縁」という言葉も口にのぼります。

源七はむくりと起きて、
「お初」
と一声大きくいふに、
「何か御用か」
と、尻目《しりめ》(1)にかけて振むかふともせぬ横顔を睨《にら》んで、
「能い加減に人を馬鹿にしろ。黙つてゐれば能い事にして、悪口雑言は何の事だ(2)。知人《しつたひと》なら菓子位子供にくれるに不思議もなく、貰ふたとて何が悪るい。馬鹿野郎呼はりは太吉をかこつけに(3)我《を》れへの当こすり、子に向つて父親《てておや》の讒訴《ざんそ》(4)をいふ女房気質《かたぎ》を誰《た》れが教へた、お力が鬼なら手前は魔王、商売人のだましは知れてゐれど(5)、妻たる身の不貞腐《ふてくさ》れをいふて済むと思ふか。土方をせうが車を引かうが、亭主は亭主の権がある(6)。気に入らぬ奴を家には置かぬ。何処へなりとも出てゆけ、出てゆけ、面白くもない女郎《めらう》(7)め」
と叱りつけられて、

(1)自分の横にあるものなどを、顔を向けずに目だけを動かして見る、人を馬鹿にした態度。
(2)いったいどうしたことだ。
(3)太吉を叱るにことよせて。
(4)悪意の告げ口。
(5)商売人がお客をだますのは分り切ったことだが。ここでは商売人の女を指している。
(6)夫には夫たるものの権限がある。
(7)「野郎」に対することば。女をののしって言う。

「それはお前無理だ、邪推が過る。何しに(8)お前に当つけよう。この子が余り分らぬと(9)、お力の仕方が憎くらしさに思ひあまつて言つた事を、とツこに取つて(10)出てゆけとまでは惨《むご》う御座んす。家の為をおもへばこそ気に入らぬ事を言ひもする、家を出るほどなら、こんな貧乏世帯の苦労をば忍んではゐませぬ」
と泣くに、
「貧乏世帯に飽きがきたなら、勝手に何処なり行つて貰はう。手前が居ぬからとて乞食にもなるまじく、太吉が手足の延ばされぬ(11)事はなし。明けても暮れても我《お》れが店《たな》おろし(12)かお力への妬《ねた》み、つくづく聞き飽きてもう厭《い》やに成つた。貴様が出ずば何《どち》ら道同じ事(13)をしくもない九尺二間(14)、我《お》れが小僧を連れて出やう。さうならば(15)十分に我鳴り立る都合もよからう。さあ貴様が行《ゆ》くか、我《お》れが出ようか」
と烈《はげ》しく言はれて、
「お前はそんなら真実《ほんとう》に私を離縁する心かへ」
知れた(16)事よ」
と例《いつも》の源七にはあらざりき。

(8)いったいどうして。
(9)聞きわけがないのと。
(10)言いがかりの材料にして。「とツこ」は、とりこ(虜)のことか。
(11)太吉が育てられない。
(12)おれの欠点を悪しざまにいう。
(13)どっちみち別れるのは同じこと。
(14)惜しくもないこのボロ長屋の家。
(15)そうなれば。
(16)わかりきった。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から

源七はむくりとおきあがって、
「お初」
と一声どなりつけた。
「なにかご用」
お初はふりむこうともしない。その横顔を源七はにらんで、
「人を馬鹿にするのもいい加減にしろ、だまってればいい気になりやがって、今の悪口雑言(あっこうぞうごん)はいったいなんだ、知った人なら菓子くらい子どもにくれてあたりまえだ、もらって何がわるい、馬鹿野郎よばわりは太吉にかこつけておれへのあてこすりかよ、子どもにむかって父親の悪口をいう女房がどこにいる、おカが鬼ならおまえは魔王だ、商売女が客をだますのは今にはじまったことじゃないが、女房が亭主にふてくされて、ただですむと思うな、上方をしようが車をひこうが、亭主は亭主だ、おまえみたいなやつを家におくのはもうごめんだ、どこへでも出てゆけ、出てゆけ、くそおもしろくもない」

お初はおろおろして、「そんなあなた、むりなこと、あんまりひどい、考えすぎだ、なんであなたにあてつけるんです、この子があんまりわからないのと、お力のしうちが憎いのとで、つい口に出していったことを、そんなふうに悪くとって、出ていけなんて、あんまりひどい、この家のためを思うから、あなたの気にいらないこともいうんです、出ていくくらいならこんな貧乏所帯で苦労なんかしてやしません」
「貧乏所帯がいやなら、勝手にどこでも出ていってもらおう、おまえがいなくたって乞食になるわけでもないし、太吉が手足をのばして寝られないわけでもないや、明けても暮れても、口をひらけばおれへの文句かお力への妬みだ、つくづく聞きあきてもういやになった、貴様か出ていかないんなら、どっちみち同じことだ、こんな惜しくもないぼろ屋、おれがぼうずをつれておん出てやる、それならおまえも充分にがなりたてられて都合がいいだろう、さあ貴様が行くか、おれが出るか」と源七ははげしくいいつのった。
「そんならほんとうにあたしを離縁する気ですか」
「あたりまえだ」
いつもの源七ではないようである。

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