にごりえ㉑
お力に執着ずる源七がうらめしくて、泣きじゃくったお初。やがて二人は、黙り込んでしまいます。そこへ、太吉が嬉しそうに帰ってきます。
物いはねば(1)狭き家《いゑ》の内《うち》も何となくうら淋しく、くれゆく空のたどたどしき(2)に裏屋(3)はまして薄暗く、燈火《あかり》をつけて蚊遣《かや》りふすべて(4)、お初は心細く戸の外をながむれば、いそいそと帰り来る太吉郎(5)の姿、何やらん(6)大袋を両手に抱へて、
「母《かか》さん母さん、これを貰《もら》つて来た」
と莞爾《につこ》として(7)駆け込むに、見れば新開の日の出やがかすていら(8)、
「おや、こんな好《い》いお菓子を誰れに貰つて来た、よくお礼を言つたか」
と問へば、
(1)二人は無言なので。
(2)ぼんやり薄暗くなっていく。
(3)裏長屋。
(4)いぶして。くすべて。
(5)太吉の正確な名前。
(6)何であろうか。
(7)にっこりほほえんで。
(8)日の出屋(屋号)のカステラ。
(2)ぼんやり薄暗くなっていく。
(3)裏長屋。
(4)いぶして。くすべて。
(5)太吉の正確な名前。
(6)何であろうか。
(7)にっこりほほえんで。
(8)日の出屋(屋号)のカステラ。
「ああ、能くお辞儀をして貰つて来た、これは菊の井の鬼姉さん(9)がくれたの」(9)お力のこと。
と言ふ。母は顔色をかへて、
「図太い奴めが。これほどの淵《ふち》に投げ込んで(10)、未《ま》だいぢめ方が足りぬと思ふか、現在の子を使ひに(11)父《とと》さんの心を動かしに遣《よこ》しおる、何といふて遣した」
と言へば、
「表通りの賑やかな処に遊んでゐたらば、何処のか伯父さん(12)と一処に来て、菓子を買つてやるから一処にお出といつて、我《おい》らは入らぬ(13)と言つたけれど抱いて行《ゆ》つて買つてくれた、喰べては悪るいかへとさすがに母の心を斗《はか》りかね(14)、顔をのぞいて猶予《ゆうよ》する(15)に、
(10)これほどみじめな境遇に突き落として。
(11)私たち夫婦の実の子を使いに立てて。
(12)小父さん。結城朝之助のことを言っている。
(13)母からいつもこう言われているので、本心ではないがこう言った。
(14)母の気持を推しはかりかねて。
(15)母の顔をのぞき込んで、食べるのをためらう。
「ああ、年がゆかぬとて何たら(16)訳の分らぬ子ぞ。あの姉さんは鬼ではないか、父さんを怠惰者《なまけもの》にした鬼ではないか、お前の衣類《べべ》(17)のなくなつたも、お前の家のなくなつたも、皆あの鬼めがした仕事(18)、喰《くら》ひついても飽き足らぬ悪魔にお菓子を貰つた喰べても能《い》いかと聞くだけが(19)情ない、汚い穢《むさ》いこんな菓子、家へ置くのも腹がたつ、捨《すて》てしまいな、捨ておしまい、お前は惜しくて捨てられないか、馬鹿野郎めと罵《ののし》りながら袋をつかんで裏の空地へ投出《なげいだ》せば、紙は破れて転《まろ》び出る菓子の、竹のあら垣(20)打こえて溝《どぶ》の中にも落込むめり(21)。
(16)なんという。
(17)「着物」に対する子ども言葉。
(18)ここでは「やり口」というようなニュアンス。
(19)「だけ」は強調で、聞くだけでも、の意。
(18)ここでは「やり口」というようなニュアンス。
(19)「だけ」は強調で、聞くだけでも、の意。
(20)竹の目を粗く綴じた垣根。
(21)落ちこんだらしい。外は暗くなり、遠目にさだかでない。「めり」は、推定の助動詞で、動詞の終止形に付いて、「…のように思われる」というようにはっきり断定しない場合に用いる。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
(21)落ちこんだらしい。外は暗くなり、遠目にさだかでない。「めり」は、推定の助動詞で、動詞の終止形に付いて、「…のように思われる」というようにはっきり断定しない場合に用いる。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から
二人ともだまりこくっている。狭い家の中がますますうら寂しく感じられる。日も暮れていく。空も暗くなっていく。家の中はまして薄暗くなっていく。お初はたちあがってあかりをともした。蚊遣りをいぶした。やりばのない思いで、外をながめた。そこへ太吉が、うれしそうに走って帰ってきた。大きな袋を両手にかかえている。
「おかあちゃんおかあちゃん、 こんなものもらった」
ニコニコしながらかけこんできて、母親にあけて見せたのは、新聞の日の出屋のカステラである。
「おかあちゃんおかあちゃん、 こんなものもらった」
ニコニコしながらかけこんできて、母親にあけて見せたのは、新聞の日の出屋のカステラである。
「おや、こんないいお東子をだれにもらったの、よくお礼をいったかい」
「うん、よくおじぎしてもらってきた、これは菊の井の鬼ねえさんかくれたの」と子どもがいった。お初は、顔色を変えた。
「なんて、まあ、 いけずうすうしい、あたしたちにこんなみじめな思いをさせて、まだいじめ方が足りないっていうのか、子どもをだしに使って父親の心を動かそうなんて、何といってよこしたの」
「表通りのにぎやかなところであそんでたら、どこかのおじさんといっしょにきて、お菓子をかってやるからおいでといったの、おいらはいらないといったんだけど、だっこしてつれてって、かってくれた、たべちゃだめ?」
さすがに子どもは親のきもちをはかりかねている。母親の顔をのぞきこんでためらっている。
「いくら小さいからっていったって、何てわけのわかんない子なんだろうね、あの姉さんは鬼じゃないか、父さんをなまけものにした鬼じゃないか、おまえのきもののなくなったのも、おまえのおうちのなくなったのも、みんなあの鬼がしたことじゃないか、食いついてやったってたりない鬼に、お菓子をもらってきて、たべちゃだめかなんて、きくだけでもなさけないよ、ああ、もう、きたない、きたならしい、こんな菓子、うちへおいとくのも腹がたつ、捨ててしまいな、捨てるんだよ、おまえは惜しくて捨てられないのか、このばかやろう」
ののしりなから、お初は袋をつかんで裏の空き地へほうり投げた。紙がやぶれて、菓子がころげ出て、竹の垣根のむこうに、どぶの中に落ちてしまった。
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