にごりえ⑳
きょうから第7章、「にごりえ」もいよいよ終盤に入ります。
七
「思ひ出したとて(1)今更にどうなる物ぞ。忘れてしまへ、諦《あきら》めてしまへ」と思案は極《き》めながら、去年の盆には揃《そろ》ひの浴衣《ゆかた》をこしらへて、二人(2)一処に蔵前《くらまへ》(3)へ参詣《さんけい》したる事なんど、思ふともなく胸へうかびて、盆に入りては仕事に出《いづ》る張《はり》(4)もなく、「お前さん、それではならぬぞへ」と諫《いさ》め立てる(5)女房の詞《ことば》も耳うるさく、
「エエ、何も言ふな、黙つてゐろ」
とて横になるを、
「黙つてゐては、この日が過《すぐ》されませぬ(6)。身体《からだ》が悪るくば薬も呑むがよし、御医者にかかるも仕方がなけれど、お前の病ひはそれではなしに(7)、気さへ持直せば何処《どこ》に悪い処があろう。少しは正気になつて勉強をして下され」
といふ。
「いつでも同じ事は耳にたこが出来て(8)、気の薬(9)にはならぬ。酒でも買て来てくれ、気まぎれ(10)に呑んで見やう」
と言ふ。
(1)源七の心境を述べていく。
(2)源七とお力をさしている。
(3)現在の東京都台東区にあった閻魔堂を指している。
(4)気持が引き締まっていること。気力。
(5)しきりに忠告する。
(6)生活ができません。
(7)お初は夫の源七が怠けている本当の理由を見抜いている。だから「少しは正気になつて」ほしいと思っている。
(8)同じことを何度も聞かされ、聞き飽きて。「たこ」は、胼胝。
(9)心のなぐさめ。気持ちの引き立て。
(10)気持ちをまぎらわす。ほかへ向けてふさいだ気分を晴らす。
「お前さん、そのお酒が買へるほどなら、嫌やとお言ひなさるを無理に仕事に出て下されとは頼みませぬ。私が内職とて、朝から夜《よ》にかけて十五銭が関の山(11)、親子三人口おも湯も満足には呑まれぬ中で、酒を買へとは能《よ》く能くお前、無茶助《むちやすけ》(12)になりなさんした。お盆だといふに、昨日《きのふ》らも(13)小僧(14)には白玉(15)一つこしらへても喰べさせず、お精霊《しようれう》さまのお店《たな》かざり(16)も拵《こしら》へくれねば、御燈明《おとうめう》一つで御先祖様へお詫《わ》びを申《まをし》てゐるも、誰《た》が仕業だとお思ひなさる。お前が阿房《あほう》を尽して(17)、お力づらめに釣られた(18)から起つた事、いふては悪るけれどお前は親不孝、子不孝、少しはあの子の行末をも思ふて真人間になつて下され。御酒《ごしゆ》を呑《のん》で気を晴らすは一時《とき》、真から(19)改心して下さらねば心元なく思はれます」(11)「関の山」は、それ以上できない限界。一葉自身の体験が反映されている。
とて女房打なげくに、返事はなくて吐息折々に太く、身動きもせず仰向《あほのき》ふしたる心根の愁《つら》さ(20)、
(12)むちゃくちゃな無理難題を言う人。
(13)昨日なども。
(14)太吉のこと。
(15)白玉粉を水でこねて丸め、ゆでて作った団子。氷あずきなどを入れて、夏、食べる。
(16)お盆に祖先の霊をまつるために、供え物を飾る棚。
(17)道楽の限りをつくして。
(18)お力のようなやつめに引っ掛けられたから。お初の嫉妬心がうかがえる。
(19)こころの底から。
(20)仰向けに寝そべる夫の薄情なこと。
「その身になつても(21)お力が事の忘れられぬか。十年つれそふて子供まで儲《もう》けし我れに、心かぎりの辛苦《くろう》(22)をさせて、子には襤褸《ぼろ》を下げさせ、家とては二畳一間のこんな犬小屋、世間一体(23)から馬鹿にされて別物に(24)されて、よしや春秋《はるあき》の彼岸《ひがん》が来ればとて(25)、隣近処に牡丹《ぼた》もち団子と配り歩く中を、源七が家へは遣《や》らぬが能い、返礼が気の毒なとて、心切《しんせつ》(26)かは知らねど十軒長屋の一軒は除《の》け物、男は外出《そとで》がちなれば、いささか心に懸るまじけれど、女心には遣る瀬のなきほど切なく悲しく、おのづと肩身せばまりて、朝夕《てうせき》の挨拶《あいさつ》も人の目色を見るやうなる情なき思ひもするを、それをば思はで、我が情婦《こひ》の上(27)ばかりを思ひつづけ、無情《つれな》き人の心の底が、それほどまでに恋しいか、昼も夢に見て独言《ひとりごと》にいふ情なさ。女房の事も子の事も忘れはてて、お力一人に命をも遣る心か(28)。浅ましい、口惜《くちを》しい、愁《つ》らい人」と思ふに中々言葉は出《いで》ずして(29)、恨みの露を目の中にふくみぬ。(21)こんなに落ちぶれた身の上になっても。
(22)我慢のできるぎりぎりの苦労。
(23)世の人たちみんな。
(24)別あつかい。
(25)春と秋の彼岸には、ぼた餅や団子を家ごとに作り、隣近所に配る習慣があった。
(26)「親切」のこと。
(27)恋人。お力のことを指している。
(28)のちの源七の運命を暗示している。
思い出したって今さらどうなるものでもない。忘れてしまえあきらめてしまえとなんども決意しなからも、去年のお盆にはそろいの浴衣をこしらえたことやそれを着て二人で蔵前に参詣したことなどが、つぎつぎと、考えるつもりもないのに源七の心にうかんでくる。盆に人ってからはますます仕事に出ようという気力もなくなった。「あなたそれじゃいけません」とお初のいさめることばが耳にうるさい。
「うるさい、だまってろ」と源七はごろりと横になった。
「あたしかだまってたら、どうやって暮らしていくんですか、身体が悪いなら薬をのめばい い、お医者にかかるのも仕方がない、でもあなたのヤマイはそんなんじゃない、きもちさえしっかりすれば、どこも悪いところなんかないくせに、少しはまともになって働いてくたさいよ」
「いつも同じことばかりいいやがって、耳にたこができる、よけい気分が悪くなる、おい、酒でも買って来てくれ、気ばらしに飲むんた」
「あなたそのお酒が買えるくらいなら、いやだといってるものをむりに仕事に出てくれなんて頼みやしませんよ、あたしの内職だって朝から夜までやって十五銭が関の山なのよ、親子三人おも湯もろくに飲めないような状態で、酒を買えなんて、あなたもよくよく無茶助になったもんだわね、お盆だというのに、昨日なんかも、ぼうやに白玉一つたべさせてやれず、お精霊のお棚かざりもつくれなかった、ご燈明ひとつあげたっきりでご先祖さまにおわびしなくちゃいけないのは、誰のせいだと思ってるんですか、あなたがばかにばかをかさねておカみたいな女につられたから起こったんでしょう、いっちゃ悪いけど、あなたは親不孝の子不孝ですよ、少しはあの子の将来も考えて真人間になってくれないと、お酒を飲んだって気がはれるのはたった一時じゃないの、しんから改心してくれないと、あたしは不安で不安でたまりませんよ」
返事はない。ため意だけときどき低くもれる。源七は身動きもしない。ただ仰向けに寝ている。
「そんなふうになってもまだお力のことが忘れられないんですか」
泣きながらお初がかきくどいた。
「十年つれそって子どもまでもうけたあたしには、こんな、心かぎりの苦労をさせて、子にはぼろを着せて、家といえば六畳一間のこんな犬小屋で、世間みんなからばかにされて、のけものにされて、春や秋に、お彼岸に、ぼたもちやお団子を隣近所にくばるときだって、源七の家にはやらない方かいいと、おかえしができないから気の毒だと、そりゃ親切でそうしてくれてるのはわかるけど、十軒長屋の中でうちだけ一軒のけものになるのよ、男の人は外に出ていくからいいけど、うちにいなきゃならない女は、やるせないほど、せつないんです、かなしいんです、肩身だってせまくなるし、朝夕のあいさつにも人の顔色をうかがうようになるし、あなたときたらそんなことをおかまいなしで、自分の女のことばかり考えて、自分を捨てた女がそんなに恋しいんですか、昼ひなかにも夢に見て、ひとりごとをいってるじゃないの、あたしのことも子どものことも忘れて、おカひとりに、命までやるつもりなんですか、あなたって人は、ほんとに、あさましい、なさけない、むごい人だ」
ことばは途切れて、あとはつづかない。お初はうらめしそうにただ泣くのである。
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