にごりえ⑲
お力の身内話は、結核で逝った母のあとを追った、職人気質の父にも及びます。
顔をあげし時は頬《ほう》に涙の痕《あと》はみゆれども淋しげの笑みをさへ寄せて、私はその様な貧乏人の娘、気違ひは親ゆづり(1)で折ふし起るのでござります、今夜もこんな分らぬ事いひ出してさぞ貴君御迷惑で御座んしてしよ(2)。もう話しはやめまする、御機嫌に障つたらばゆるして下され、誰れか呼んで陽気にしませうか」(1)原題名の一つ。
と問へば、
「いや遠慮は無沙汰(3)、その父親《てておや》は早くに死《な》くなつてか」
「はあ、母《かか》さんが肺結核といふを煩《わづら》つて死《なく》なりましてから一週忌の来ぬほどに跡を追ひました、今居りましても未《ま》だ五十、親なれば褒めるでは無けれど細工は誠に名人と言ふても宜《よ》い人で御座んした、なれども名人だとて上手だとて私等が家のやうに生れついた(4)は何にもなる事は出来ないので御座んせう、我身の上にも知られまするとて物思はしき風情《ふぜい》。
「お前は出世を望むな(5)」
と突然《だしぬけ》に朝之助に言はれて、
「ゑツ」
と驚きし様子に見えしが、
「私等が身にて望んだ処が味噌こしが落《おち》(6)、何の、玉《たま》の輿《こし》(7)までは思ひがけませぬ」
といふ。
(2)ございましてでしょう。ていねいな言いかたをしている。
(3)遠慮しすぎると無沙汰と同じことになり、かえって礼を失う。つまり、いらぬ遠慮はせぬがいい。
(4)世にいれられない生きかたをせずにはいられない反俗、叛逆の精神をもっている家系という意、と考えられている。
(5)出世を望んでいるんだな。「な」は感嘆の終助詞。
(6)せいぜい貧乏人の女房におさまるくらい。
(7)「味噌こし」に対して「玉の輿」。
「嘘《うそ》をいふは人に依《よ》る、始めから何も見知つてゐるに、隠すは野暮の沙汰(8)ではないか。思ひ切つてやれやれ(9)」
とあるに、
「あれ、そのやうなけしかけ詞《ことば》はよして下され。どうでこんな身でござんするに」
と打しほれて又もの言はず。
今宵もいたく(10)更《ふ》けぬ。下坐敷の人はいつか帰りて、表の雨戸をたてる(11)と言ふに、朝之助おどろきて帰り支度するを、お力は、「どうでも泊らする」といふ。いつしか下駄をも蔵《かく》させたれば、足を取られて(12)幽霊ならぬ身(13)の、戸のすき間より出《いづ》る事もなるまじとて、今宵は此処《ここ》に泊る事となりぬ。雨戸を鎖《とざ》す音一しきり賑《にぎ》はしく、後《のち》には透きもる(14)燈火《ともしび》のかげも消えて、唯軒下を行かよふ夜行の巡査(15)の靴音のみ高かりき。
(8)あか抜けしないやりかた。
(9)出世をねらってやれ。
(10)たいそう。
(11)店も閉める。
(12)下駄をうばわれて。
(13)足がない幽霊は下駄がなくても戸のすき間からでも出られるが、人間ではそうもいかない。
(14)戸のすき間からもれる。
(15)警備のため夜回りをしている巡査。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から
顔をあげたときは、その頬に、涙のあとはあってもほほえみをうかべていた。
「あたしはそんな貧乏人の娘、おかしくなるのは親ゆずりでときどき起こるんです、今夜もこんなわからないことをいい出してほんとにごめんなさい、もうやめます、気にさわったらゆるしてね、誰か呼んで陽気にしましようか」
「いや遠慮しなくたっていいんだ、お父さんは早くなくなったのか」
「ええ、母さんが肺結核をわずらってなくなって、 一周忌のこないうちにあとを追いました、今生きていてもまだ五十、親だからいうわけじゃないけど、名人といっても いいくらいの職人たったの、でもいくら名人だ上手だといったって、あたしのような家に生まれついたらさいご、どうなることもできないのね、あたしだってそうなんだわ」と、なにか考えこんでいる。
「おまえは出世したいんたなあ」ととつぜん結城がいった。
「え」とお力はおどろいて顔をあげた。
「あたしなんて、出世したくってもみそこしかせいぜいで、玉の輿なんてとてもとても」「うそをつかなくたっていいんだ、おれにははじめからわかっていたんたから、今さら隠すなんて野暮だ、やればいい、思い切ってどんどんやればいい」と結城がいった。
「そんな、けしかけるのはやめて、しょせんこんな身なんですもの」とお力は、またうちしおれて、だまってしまった。
下座敷の人々もいつのまにか帰ったらしい。表の雨戸をたてる音がする。夜の更けたのに気がついて、結城も帰り支度をはじめた。するとお力が、どうしても泊まらせるといってきかない。下駄を隠してまでひきとめるので、結城も、足をとられて幽霊じゃあるまいし、戸のすきまから出ていくわけにもいかないしと、今夜はここに泊まることにした。それから雨戸をたてる音がひとしきりきこえた。雨戸からもれる灯のかげもやがて消えた。通りを行く夜回りの巡査の靴音だけが高くひびいた。
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