にごりえ⑱
お力の身の上話は、父や母、子どものころの思い出などに及びます。
「親父は職人、祖父《ぢぢい》は四角な字をば読んだ人(1)でござんす、つまりは私のやうな気違ひで、世に益のない反古紙《ほごがみ》をこしらへし(2)に、版をばお上《かみ》から止められた(3)とやら、ゆるされぬとかにて、断食して死んださうにござんす、十六の年から思ふ事があつて、生れも賤しい身であつたれど、一念に修業して六十にあまるまで仕出来《しでか》したる(4)事なく、終《おはり》は人の物笑ひに、今では名を知る人もなしとて父が常住(5)歎《なげ》いたを、子供の頃より聞知つておりました。(1)「四角な字」は漢字のことで、学識のある人。
(2)無駄な著述をしたのであるが。謙遜に皮肉もこもっている。
(3)幕府から出版禁止の処分を受けた。
(4)きちんと成しとげた。
(5)つね日ごろ。
私の父といふは三つの歳《とし》に椽《えん》から落て片足あやしき風に(6)なりたれば人中に立まじるも嫌やとて、居職《いしよく》(7)に飾《かざり》の金物《かなもの》をこしらへましたれど、気位たかくて人愛《じんあい》(8)のなければ、贔負《ひいき》にしてくれる人もなく、ああ、私が覚えて七つの年の冬(9)でござんした、寒中、親子三人ながら古裕衣《ふるゆかた》で、父は寒いも知らぬか、柱に寄つて細工物に工夫をこらすに、母は欠けた一つ竈《ぺツつい》(10)に破《わ》れ鍋《なべ》かけて、私にさる物を買ひに行けといふ。(6)片足が不具に。
(7)飾り職など、自宅で仕事をする職業。
(8)人に好まれる愛嬌。
(9)思いおこせば自分が7歳のときの冬。
(10)吹き口の一つしかないかまど。へっついは「へつい」の音便でかまどのこと。通常の家では飯を焚くうちに汁を煮たりするため、へっついの吹き口は二つ以上あった。「一つ竈」は、一つだけの竈で煮たきすることしかできない貧しい家庭をあらわしている。
味噌こし(11)下げて端《はし》たのお銭《あし》(12)を手に握つて、米屋の門《かど》までは嬉しく駆けつけたれど、帰りには寒さの身にしみて手も足も亀《かじ》かみたれば、五六軒隔てし溝板《どぶいた》の上の氷にすべり、足溜《あしだま》り(13)なく転《こ》ける機会《はづみ》に、手の物を取落して、一枚はづれし溝板のひま(14)よりざらざらと翻《こぼ》れ入れば、下は行水《ゆくみづ》(15)きたなき溝泥《どぶどろ》なり、幾度《いくたび》も覗《のぞ》いては見たれど、これをば何として拾はれませう。
(11)味噌をこすため、細かく削った竹でふるいの目のように細かく編んだざる。
(12)まとまった額にならない僅かな金。
(13)足がかり。
(14)どぶ板のすき間。
(15)流れて行く水。流水。
その時私は七つであつたれど、家《うち》の内《うち》の様子、父母《ちちはは》の心をも知れてあるに(16)、お米は途中で落しましたと空《から》の味噌こしさげて家には帰られず、立《たつ》てしばらく泣いていたれど、どうしたと問ふてくれる人もなく、聞いたからとて買てやらうと言ふ人は猶更《なほさら》なし。あの時、近処に川なり池なりあらうなら、私は定《さだめ》し身を投げてしまひましたろ。話しは誠の百分一(17)、私はその頃から気が狂つたのでござんす。皈《かへ》りの遅きを母の親(18)案じて、尋ねに来てくれたをば時機《しほ》に、家へは戻つたれど、母も物いはず父親《てておや》も無言に、誰《た》れ一人、私をば叱《しか》る物もなく、家《うち》の内森《しん》として、折々溜息《ためいき》の声のもれるに、私は身を切られるより情なく、今日は一日断食にせうと父の一言いひ出すまでは、忍んで(19)息をつくやうで御座んした」(16)わかっているのに。
いひさして、お力は溢《あふ》れ出《いづ》る涙の止め難ければ、紅《くれな》ひの手巾《はんけち》(20)かほに押当て、その端を喰ひしめつつ(21)物いはぬ事小半時《こはんとき》(22)、坐には物の音もなく、酒の香したひて寄りくる蚊のうなり声のみ高く聞えぬ。
(17)言葉では真実の百分の一も表わせない。
(18)母親。
(19)そっと呼吸音を漏らさないようにして。
(20)当時はやった、紅色の絹のハンカチ。
(21)口にくわえて噛みしめながら。
(22)昔の一時(いっとき)の4分の1で、現在の30分。それくらい長く感じられた。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から
「父親は職人、祖父は学間をやってたんですって、やっぱり、あたしみたいな変わり者だったらしくて、本をかいて、どうせなんの役にもたたないような本、そしたらお上(かみ)から出版さしとめをくらって、それが無念で、断食して死んたんですって、生まれはいやしいのに、十六のころから思いたって一心に勉強して、でもそれだけ、六十すぎまで何をやってもものにならず、しまいには世間の物笑いになって、今じゃ名前もわすれられてしまったと父か、いつもなげいていたのを、子どものころから聞いてたから。
あたしの父というのは三つの年に縁側からおちて片足がきかなくなって、人とまじわるの はいやだといって、金ものの飾りの職人になって、うちで仕事してたの、でも、気位がたかくて愛想もわるくって、ひいきにしてくれる人もぜんぜんなくて。
あれは、あたしが七つの年の冬でした。
寒いさなかなのに、親子三人古ゆかたで、それでも父は寒いのも感じしないみたいに、柱に寄りかかって熱心に仕事していて、母は、欠けたかまどに割れた鍋をかけて、あたしに、おっかいに行けと、それであたしは小銭をしっかりにぎって、 みそこし持って、わくわくしながら、米屋に走っていった、そこまではよかったの、ところがあんまり寒くて、手も足もすっかりかじかんで、帰りがけに、家の五六軒手前まで来たところで、とぶ板の上で、氷にすべって、ころんじゃった、そのはすみに、持ってたみそこしを落っことして、お米か、ざらさら、ざらざら、どぶ板のすきまからこほれていっちゃった、下はどろどろのどぶですもの、何度ものぞいてみたけど、とうやったって拾えるもんじゃない。
そのときあたしは七つだったけど、うちにお金がないってことも両親のきもちも、よくわかってたから、お米落っことしちゃったなんて、空のみそこしさげて帰るなんて、とてもできなかった、そこに立ってしばらく泣いてたけど、どうしたときいてくれる人もないし、きいたところで買ってやろうっていう人はなおさらないし、あのとき近所に川なり池なりあったら、あたしはきっと、身を投げて死んでたと思うの、ああ、話しても話しても、あのときのきもちの百分の一くらいしか伝わっていかないような気かする、でもね、あたしはあのときからおかしくなったのよ
母か心配して見にきてくれて、あたしはやっと家に帰ったの、帰ったけれども、母も父もあたしを叱りもせず、だまってるはかりで、家の中はしいんとして、ときどきためいきがもれて、そのためいきが、あたしには身を切られるよりつらくて、とうとう父が、今日一日断食しようとひとこというまでは、息をするのも、そうっと、そうっと、しのんで、していたくらい」
ことばかとぎれた。涙のあふれるのをおさえきれすに、お力は、紅のハンカチを顔におしあてて、その端をかみしめた。長い間そうやって、二人ともものをいわす、その場にはものおともせず、酒のにおいをめあてに寄ってくる蚊のうなり声だけか音たかくきこえた。
コメント
コメントを投稿