にごりえ⑰
お力は、結城に、自分自身について詳らかに語りはじめます。
常にはさのみに心も留まらざりし(1)結城の風采《やうす》の、今宵《こよひ》は何となく尋常《なみ》ならず思はれて、肩巾《かたはば》のありて背のいかにも高き処より、落ついて物をいふ重やかなる口振り、目つきの凄《すご》くて人を射るやうなるも威厳の備はれるかと嬉しく、濃き髪の毛を短かく刈あげて、頸足《ゑりあし》のくつきりとせしなど、今更のやうに眺られ、(2)
「何をうつとりしてゐる」
と問はれて、
「貴君のお顔を見てゐますのさ」
と言へば、
「此奴《こやつ》めが」
と睨《にら》みつけられて、
「おお怕《こわ》いお方」
と笑つてゐるに、
「串談《じやうだん》はのけ(3)、今夜は様子が唯でない、聞たら怒るか知らぬが何か事件があつたか」
ととふ。
「何しに降つて湧《わ》いた事もなければ(4)、人との紛雑《いざ》(5)などはよし有つたにしろ、それは常の事(6)、気にもかからねば何しに物を思ひませう(7)。私の時より(8)気まぐれを起すは、人のするのでは無くて(9)、皆、心がら(10)の浅ましい訳がござんす。私はこんな賤《いや》しい身の上、貴君は立派なお方様、思ふ事は反対《うらはら》に、お聞きになつても汲《く》んで下さるか下さらぬか、其処《そこ》ほど(11)は知らねど、よし笑ひ物になつても私は貴君に笑ふて頂きたく、今夜は残らず言ひまする。まあ、何から申さう、胸がもめて(12)口が利《き》かれぬ」とて又もや大湯呑に呑む事さかんなり。
(1)通常はそれほど心がひかれなかった。
(2)すばらしく見え、
(3)冗談はさておき。
(4)どうして、突然起こった出来事でもなければ。
(5)いざこざ、もめごと。
(6)ありふれたこと。
(7)どうしてもの思いなどしましょう。
(8)時おり。
(9)他人がそうさせるのではなくて。
(10)自分の心がけによってそうなること。自業自得。
(11)そこのところ。
(12)気持がいらだって。
「何より先に私が身の自堕落(13)を承知してゐて下され。もとより箱入りの生娘《きむすめ》(14)ならねば、少しは察してもゐて下さろうが、口奇麗(15)な事はいひますとも、このあたりの人に泥の中の蓮《はす》(16)とやら、悪業《わるさ》(17)に染まらぬ女子《おなご》があらば、繁昌どころか見に来る人もあるまじ。貴君は別物、私が処へ来る人とても大底《たいてい》はそれと思《おぼ》しめせ(18)。これでも折ふしは世間さま並の事を思ふて、恥かしい事つらい事情ない事とも思はれるも、寧《いつそ》九尺二間でも(19)極《き》まつた良人《おつと》といふに添うて身を固めようと考へる事もござんすけれど、それが私は出来ませぬ。それかと言つて、来るほどのお人(20)に無愛想もなりがたく、可愛いの、いとしいの、見初《みそめ》ましたのと出鱈目《でたらめ》のお世辞をも言はねばならず、数の中には(21)真《ま》にうけてこんな厄種《やくざ》(22)を女房《にようぼ》にと言ふて下さる方もある。持たれたら(23)嬉しいか、添うたら本望か、それが私は分りませぬ。そもそもの最初《はじめ》から私は貴君が好きで好きで、一日お目にかからねば恋しいほどなれど、奥様にと言ふて下されたらどうでござんしよか。持たれるは嫌なり他処《よそ》ながらは慕はしし、一ト口に言はれたら浮気者でござんせう。ああ、こんな浮気者には誰《た》れがしたと思召《おぼしめす》、三代伝はつての出来そこね、親父《おやぢ》が一生もかなしい事でござんした」
とてほろりとするに、「その親父さむ(24)は」と問ひかけられて、
(13)身を持ちくずして、だらしない。
(14)めったに外へも出さないようにして、家の中で大切に育てられたお嬢さん。
(15)口先だけは上品で、立派なことを言う。
(16)汚れた稼業に染まずに美しく生きる女。
(17)売春のことをいっている。
(18)このお力のからだが目当てなのだ。
(19)貧乏長屋の暮しでも。
(20)「お力に」と言ってやって来るような客。
(21)多くの人のなかには。
(22)ろくでなしを。自嘲して言っている。
(23)妻によりかかれたら。
(24)お父さん。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から
「なにを見てるんた」と結城かいった。
「あなたの顔をみてるのよ」
「こいつめ」と結城ににらみつけられて、「おおこわい」とお力は笑っている。
「冗談はともかく、ほんとに今夜はようすかへんたぞ、きいたら怒るかもしれないが、なにかあったのか」と結城かきいた。
「いいえなんにも、人とのいざこざはいつものことですもの、そんなのはちっとも気にならないから悩むなんてこともないの、あたしがときどき気まぐれをおこすのは、人のせいじゃなくて、あたし自身のせいなのよ、あたしはこんないやしい女で、あなたはこんなりっぱな方で、 いったいあたしの思ってることを話したって、わかってくれるかとうかわからないけど、 でもいいの、わかってくれなくても、笑われたっていいの、あたしはあなたに笑われたいの、今夜はなにもかも話しますからね、まあ何から話そうか、胸がつまって口がきけなくなっちゃった」とまた大湯飲みにぐいぐいとあおる。
「なにより先に、あたしがだらしない女だってことをわかってほしいの、箱人りの生娘(きむすめ)なんかじゃないってことはとっくに知ってるでしょう、泥の中の蓮だとかなんとか、いくらきれいごとをいわれたって、あたしたちか悪いことにそまらなかったら、繁盛するどころか見にくる人だってないわ、あなたはちかうの、でもあたしのところへくるお客なんてみんなそんなものよ、あたしだってときどきは世間並みなこと考えて、こんな仕事してるなんて、恥すかしいとも、つらいとも、なさけないとも思うの、いっそ貧乏な裏長屋に住んだっていいから、きまった男を夫に持って身を固めようかとも考える、でもそれかあたしにはできないの、それでも、お客がくれば愛想をふりまかなくちゃいけない、すてきたとか、いとしいとか、すきになりましたとか、 いいかげんなお世辞もいわなくちゃいけない、中にはそんなお世辞をまにうけて、こんなやくざなあたしでも女房にしたいといってくれる人もある、好きな男に女房にしてもらったらうれしいか、好きな男の女房になれたら本望か、それがあたしにはわからない、だいたい、はじめから、あたしはあなたか好きで好きで、一日会わないと恋しくなる、でも、そのあなたが、あたしを奥様にしてくれるとしたらどうかしら、きまった男にしばられるのはいや、でも手のとどかないところにいれば慕わしくてたまらない、ええそうよ、ふらふらしてるの、おちつかないの、浮気者なのよ、どうしてこんなになっちゃったかといえば、あたしが、三代つづいたできそこないだからよ、あたしの父親の一生もろくなものじゃなかった」とお力は涙ぐんだ。
「その親父さんは」
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