にごりえ⑯

お力は、すっかり忘れていた結城と突然出くわします。

     六

十六日は必らず待まする来て下されと言ひしをも何も忘れて、今まで思ひ出しもせざりし結城の朝之助に不図《ふと》出合《であひ》て、あれと驚きし顔つきの、例に似合ぬ狼狽《あわて》かたがをかしきとて、からからと男の笑ふに少し恥かしく、
「考へ事をして歩いてゐたれば、不意のやうに(1)惶《あは》ててしまいました。よく今夜は来て下さりました」
と言へば、
「あれほど約束をして、待てくれぬは不心中《ふしんぢう》(2)
とせめられるに、
「何なりと仰《おつ》しやれ、言訳は後《のち》にしまする」
とて手を取りて引けば、
「弥次馬がうるさい」と気をつける。
どうなり勝手に言はせませう(3)、此方《こちら》は此方」
と人中《ひとなか》を分けて伴ひぬ。
下座敷はいまだに客の騒ぎはげしく、お力の中座をしたるに不興《ぶきよう》して(4)喧《やかま》しかりし折から、店口にて、おやお皈《かへ》りかの声を聞くより、「客を置ざりに中坐するといふ法があるか。皈つたらば此処へ来い、顔を見ねば承知せぬぞ」と威張たてるを聞流しに、二階の座敷へ結城を連れあげて、
今夜も頭痛がするので(5)御酒《ごしゆ》の相手は出来ませぬ、大勢の中に居れば御酒の香《か》に酔ふて夢中になるも知れませぬから、少し休んでその後《のち》は知らず(6)、今は御免なさりませ」
と断りを言ふてやるに、

(1)思いもかけないことのように。
(2)人に対して義理を守らない、誠実でないこと。
(3)どうなりと、言いたい人には勝手に言わせておこう。
(4)おもしろくないと言って。
(5)下座敷の客への言いわけ。
(6)その後はわからないが。

「それで宜いのか、怒りはしないか。やかましくなれば面倒であらう」
と結城が心づける(7)を、
「何の、お店《たな》ものの白瓜《しろうり》(8)どんな事を仕出《しいだ》しませう(9)。怒るなら怒れでござんす」
とて小女《こをんな》に言ひつけてお銚子の支度、来るをば待かねて、
「結城さん、今夜は私に少し面白くない事があつて、気が変つてゐまするほどに(10)、その気で附合てゐて下され。御酒を思ひ切つて呑《の》みまするから止めて下さるな。酔ふたらば介抱して下され」
といふに、
「君が酔つたを、未《いま》だに見た事がない。気が晴れるほど呑むはいいが、又頭痛がはじまりはせぬか。何がそんなに逆鱗《げきりん》(11)にふれた事がある、僕らに言つては悪るい事か」
と問はれるに、
「いゑ、貴君《あなた》には聞て頂きたいのでござんす、酔ふと申しますから驚いてはいけませぬ」
と嫣然《につこり》として、大湯呑を取よせて二三杯は息をもつかざりき(12)
(7)注意する。
(8)生白い顔をした商家の番頭や手代をばかにして言った。
(9)どんなことができるのでしょう、何もやれはしません。
(10)ふだんと気持が違っていますので。異常な興奮状態にあるから。
(11)はげしく怒ること。龍ののどもとにさかさに生えた一枚のうろこがあって、人が触れると怒って殺すという中国の故事から。龍は天子をたとえたもので、「げき」は「逆」の漢音。
(12)二、三杯たてつづけに飲んだ。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から

十六日は待ってますからね、きっと来てねと結城にいったのを、お力はすっかり忘れていたのである。今まで思い出しもしなかった結城にとっぜん出くわした。そのおどろく顔が、ふだんのお力とちがっていておかしいと、結城は大笑いしている 。

「まあ恥ずかしい、考えごとをしなから歩いてたから不意をつかれてあわてちゃった、よく今夜は来てくれたのね」とおカがいった。
あれほど約東をしたのに待っててくれないんだからつめたいじゃないか」と結城がからかった。

「何とでもいってちょうだい、いいわけはよあとで」
お力は結城の手をにぎってそのまま歩いていく。
「おいおい、やじうまかうるさいからよせよ」
「かってにいわせとけばいいのよ、こっちはこっち」
お力は結城の手をひいて、人の間をかきわけて、菊の井につれてきた。

下座敷では、客かお力に中座(ちゅうざ)されたのを怒ってまたさわいでいた。おやお帰りかいと店先でいうのをきいて、客をおきざりにして中座するという法かあるか帰ったんならここへ来い顔を見せないとしょうちしないなどと、居丈高にいいちらしている。お力はそれを聞き流して、二階の座敷へ結城をつれてあがった。下座敷には、人をやってことわりを入れただけである。「今夜も頭痛がするのでお酒の相手はできません。おおぜいの人の中で悪酔いしそうなのでちょっと休ませていただきます。後のことはともかく、今はごめんなさい」

結城が心配して、「それでいいのか、客は怒らないのか、もめたりしたらめんどうなことになるんじゃないか」というけれども、お力はかまわす、「いいのよ、商人ふぜいの白瓜になにかできますかってんだ、怒るなら怒りやかれだわ」
女中にいいつけてお銚子のしたくをさせると、酒が来るのをまちかねて、
「結城さん、今夜はあたし、ちょっとおもしろくないことがあって、なんだか変ですから、その気でつきあってね、お酒をがんがん飲むんだから、とめないでね、酔ったら介抱してちょうたいね」といった。

「きみの酔ったところはまだ見たことかない、気かはれるまで飲むのはいいけど、また頭痛がしたりしないか、 い ったい何かあったんだ、おれなんかにいったってしょうがないことか」
「いいえ、あなたにはきいてもらいたいのよ、酔ったら何もかも話しますから、おどろいたりしちゃだめ」
お力はニコニコしながらそういうと、湯飲みをとりよせて、二三杯は息もつかないで飲みほした。

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