にごりえ⑬

きょうから「五」。「銘酒」の看板をあげてひそかに売春をさせた下等な遊女屋、「銘酒屋」の実態について語られていきます。

     五

誰《た》れ白鬼《しろおに》(1)とは名をつけし、無間《むげん》地獄(2)そこはかとなく景色づくり(3)、何処にからくり(4)のあるとも見えねど、逆さ落しの血の池、借金の針の山(5)に追ひのぼすも手の物(6)ときくに、寄つてお出でよと甘へる声も蛇くふ雉子《きぎす》(7)と恐ろしくなりぬ。さりとも胎内十月《とつき》の同じ事して(8)、母の乳房にすがりし頃は、手打々々《てうちてうち》あわわの可愛げに、紙幣《さつ》と菓子との二つ取り(9)には、おこしをおくれと手を出したる物なれば、今の稼業に誠はなくとも、百人の中の一人に真からの涙をこぼして、

(1)「白首」ともいう。私娼のことをののしる言葉。
(2)大悪を犯した者が、死後絶えることのない極限の苦しみを受ける地獄。八熱地獄の第八番目、最下底の地獄。ここでは銘酒屋をたとえている。
(3)どことなく風情ある雰囲気に見せかけ。
(4)仕掛け。仕組み。
(5)「血の池」「針の山」は、罪人に責め苦を与える地獄の場。娼婦に迷った客の没落、破産をたとえている。
(6)得意とするもの。
(7)芭蕉の「蛇くふときけばおそろし雉の声」(1690年、美しい姿をしている雉子が、蛇をも食う鳥でもあると聞くと、可憐ななかに何とも恐ろしいものを感じる)によっている。ここでは「雉子」を私娼に擬している。
(8)同じように母親の胎内に10カ月宿って。
(9)二つのうち一つを選び取らせること。

「聞いておくれ、染物やの辰《たつ》さんが事を。昨日《きのふ》も川田やが店でおちやつぴい(10)のお六めと悪戯《ふざけ》まわして、見たくもない往来へまで担ぎ出して打ちつ打たれつ、あんな浮いた了簡《りようけん》(11)で末が遂げられやうか、まあ幾歳《いくつ》だとおもふ、三十は一昨年《おととし》、宜《い》い加減に家《うち》でも拵へる仕覚《しがく》(12)をしておくれと、逢《あ》ふ度に異見(13)をするが、その時限り、おいおいと空《そら》返事して、根つから気にも止めてはくれぬ。父《とつ》さんは年をとつて、母《はは》さんと言ふは目の悪るい人だから、心配をさせないやうに早く締つてくれれば宜《い》い(14)が、私《わたし》はこれでもあの人の半纒《はんてん》をば洗濯して、股引《ももひき》のほころびでも縫つて見たいと思つてゐるに、あんな浮いた心では何時引取つてくれる(15)だらう。考へるとつくづく奉公が嫌《い》やになつて、お客を呼ぶに張合もない。ああ、くさくさする」とて常は人をも欺《だま》す口で、人の愁《つ》らき(16)を恨みの言葉、頭痛を押へて思案に暮れるもあり。

(10)女の子がおしゃべりな様子、おしゃべりな女の子のこと。遊郭で、客がつかず、ひまな遊女にお茶出しをさせていて、そうした遊女におしゃべりが多かったことに由来する。
(11)いいかげんな考えかた。
(12)所帯をもつためのたくわえ。
(13)意見。
(14)遊びなどしないで、身持ちをよくしてくれればいい。
(15)私を妻として。
(16)薄情。

ああ、今日は盆の十六日(17)だ。お焔魔様《ゑんまさま》へのお参りに連れ立つて通る子供達の、奇麗な着物きて小遣《こづか》ひもらつて嬉しさうな顔してゆくは、定めて定めて、二人揃《そろ》つて甲斐性《かひせう》のある(18)親をば持つてゐるのであろ。私が息子の与太郎《よたらう》は、今日の休みに御主人から暇が出て、何処へ行《ゆ》つてどんな事して遊ばうとも、定めし人が羨《うらやま》しかろ。父《とと》さんは呑《のみ》ぬけ(19)、いまだに宿(20)とても定まるまじく、母はこんな身(21)になつて恥かしい紅白粉、よし居処が分つたとて、あの子は逢ひに来てもくれまじ。去年向島《むかふじま》(22)の花見の時、女房づくりして丸髷《まるまげ》(23)に結つて、朋輩《ほうばい》と共に遊びあるきしに、土手の茶屋であの子に逢つて、これこれと声をかけしにさへ、私の若く成《なり》しに呆《あき》れて、お母《つか》さんでござりますかと驚きし様子。

(17)7月16日。東京・小石川にある源覚寺のこんにゃく閻魔の縁日。この日は地獄の釜の蓋も開くと伝えられる。奉公人の休日。
(18)働きがあって頼もしい。
(19)底抜けの大酒のみ。のんだくれ。
(20)すみか。
(21)銘酒屋の酌婦という身。
(22)隅田川の向こう岸に島のように見えたところから、東京都墨田区、隅田川の東岸にある地名。墨堤は桜の名所として知られた。
(23)いただきに楕円形でやや平たいまげをつけた、結婚している女性の髪の結い方。

ましてやこの大島田(24)に折ふしは時好《じこう》の花簪《はなかんざし》(25)さしひらめかして、お客を捉《と》らへて串談《じようだん》いふ処を聞かば、子心には悲しくも思ふべし。去年あひたる時、今は駒形《こまかた》(26)の蝋燭《ろうそく》やに奉公してゐまする、私はどんな愁《つ》らき事ありとも必らず辛抱しとげて、一人前の男になり、父《とと》さんをもお前をも、今に楽をばお為《さ》せ申ます、どうぞそれまで何なりと堅気《かたぎ》の事をして、一人で世渡りをしてゐて下され、人の女房にだけはならずにゐて下されと異見を言はれしが、悲しきは女子《をなご》の身の、寸燐《まつち》の箱はり(27)して一人口《ひとりぐち》過《すぐ》しがたく、さりとて人の台処を這ふ(28)も、柔弱の身体《からだ》なれば勤めがたくて、同じ憂《う》き中にも身の楽なれば、こんな事して日を送る。夢さら(29)浮いた心では無けれど、言甲斐《いひがひ》のない(30)お袋と、あの子は定めし爪《つま》はじきする(31)であらう。常は何とも思はぬ島田が今日ばかりは恥かしい」と夕ぐれの鏡の前に涕《なみだ》ぐむもあるべし。

(24)大きく結った、若い娘の派手な髪型。
(25)金紙や銀紙の短冊などが付いた流行のかんざし。
(26)台東区南東部、隅田川の西岸に沿った地名。駒形堂があるところから呼ばれた。駒形の渡しは、吉原通いの船の船着場でもあった。
(27)マッチ箱をおおう、印刷された紙などを貼る内職。
(28)下女奉公をする。
(29)少しも・・・ない。
(30)意見するだけの価値のない。
(31)非難する。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から

女たちは白鬼(しろおに)と呼ばれている。だれがつけたか、うまい名である。あの町は、たしかに、鬼でひしめく無間(むげん)地獄を思わせる。たいしたしかけもないのに、女たちがたくみに男を血の池にひきずりこみ、借金の針山に追いあげる。寄っておいでよと誘う声は甘く耳にひびくが、雉子か蛇をとって食うときも、あんな甘い声を出して蛇を誘うとのを知っているか。そんな女たちだって人間にはちがいない。母親の胎内には十月いたし、母親の乳房にすがりついて、母親の膝の上でおつむてんてんとかわいらしい芸をした。お金とお菓子とどっちがいいといわれれば、お菓子かいいと、ちいさい手を出した。女たちか男を相手に、まごころなんてどこにもない商売である。それでも百人の女かいれば、一人くらいは、心からの涙をなかす。

 「ねえきいてきいて、そめものやの辰さんのことよ、きのうも川田やの店でおちゃっぴいのおろくなんかと、ふざけてるのよ、あんなところ見たくもなかった、通りまで飛ひ出していって、ぶったりぶたれたり、あんなふらふらしたことでどうするんたろう、あの人いくつだと思う、三十もとっくにこえてるのよ、いいかげんに所帯もつこと考えてよって会うたびにいってるんだけれど、生返事するたけでまじめにきいてくれない、あの人のお父さんは年よりだし、お母さんは目がわるいし、だから心配させないように早くきちんとしてくれればいい 、あたしはこれでもあの人のはんてんを洗濯したり、ももひきをつくろったりしてみたいと思ってるのに、あんなふらふらしたことじゃいつ身請けしてくれるかわかんない、考えるとつくづくこんな仕事かいやになる、お客に声かけるのも、何のためにしてんだか、ちっともはりあいがない、つまらない」と、こめかみをおさえてうなだれて、女がいう。男への恨みつらみをこぼしているロは、いつもなら男をだますのに使うロである。そうかと思えば

「ああ今日は盆の十六日だ、えんま様のお参りに、子どもたちが連れ立ってとおるよ、きれいな着物きてこづかいもらってうれしそうな顔をしていくよ、あの子たちには、きっときっと、二人そろって甲斐性のある親かいるんだ、あたしの息子の与太郎も、今日はお休みをもらってるだろうけれど、どこへ行ってどんなことをして遊んだって、人様がうらやましいにちがいない、父親はのんべで、住所も定まらないし、母親はこんなところで、こんなはでななりしてさ、こんなことやってるんだ、たとえ居所がわかったところで、会いにきてくれるわけがない、去年、向島の花見のとき、人妻みたいに丸まげに結って、仲間といっしょに遊びあるいてたら、上手のお茶屋でばったりあの子に会った、あたしは声かけた、あのときだって、与太郎は、あたしの若作りにあきれてたもの、ましてやこの大島田だ、花かんざしなんかヒラヒラさせて、お客をつかまえて軽ロたたいてるところを見たら、子どもとしたらせつないだろう、去年会ったときは、今は駒形のろうそく屋に奉公してるって、どんなつらいことがあってもかならず辛抱して一人前になって、おとっさんもおっかさんも今に楽をさせてあげるって、とうかそれまで、かたぎで、一人で、暮らしておくれ、だれかの女房になるのだけはおっかさんしないでおくれといわれた、たけれども女の身だ、マッチの箱はりじゃ暮らしていけない、人様の家の台所をはいずりまわるには体が弱い、同じ苦労するならすこしでも体の楽な方がと思って、こんなことをして身すぎしている、ふらふらしたくてしてるんじゃけっしてないんたけれども、きっとあの子は 、おふくろはおれのきもちをちっともわかってくれないと、あたしに愛想をつかすだろう、この商売、いつもは何とも思わないのに、なんだか今日ばかりは恥ずかしくなった」と、夕暮れ、鏡の前にすわりこんで、涙ぐむ女もいる。

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