にごりえ⑫

 源七一家のつつましい食卓の様子が描かれていきます。

「お前さん、蚊が喰ひますから早々《さつさつ》とお上りなされ」
と妻も気をつくる(1)に、
「おいおい」
と返事しながら、太吉にも遣はせ(2)我れも浴びて、上にあがれば洗ひ晒《ざら》せしさばさばの(3)裕衣を出して、
「お着かへなさいまし」
と言ふ。帯まきつけて風の透《す》く処(4)へゆけば、妻は能代《のしろ》(5)の膳の、はげかかりて足はよろめく(6)古物に、
「お前の好きな冷奴《ひややつこ》にしました」
とて小丼《こどんぶり》に豆腐を浮かせて、青紫蘇の香《か》たかく(7)持出せば、太吉は何時《いつ》しか、台より飯櫃《めしびつ》取おろして、よつちよいよつちよい(8)と担《かつ》ぎ出す。

(1)気をつける。
(2)湯を。
(3)糊の効いている、さっぱりした感じのする。
(4)風通しのいいところ。
(5)能代塗。秋田県能代市から産する淡黄色の春慶塗。江戸前期に始まり、能代春慶ともいう。
(6)膳の脚がゆるんで、ぐらぐらになった。
(7)冷奴に添えられたあしらい。季節感もあり、食欲をそそる。
(8)お神輿をかつぐまねをしている。

「坊主(9)は我《お》れが傍《そば》に来い」
とて頭《つむり》を撫《な》でつつ箸《はし》を取るに、心は何を思ふとなけれど(10)舌に覚えの無くて(11)咽《のど》の穴はれたる如《ごと》く、
「もう止《や》めにする」
とて茶椀《ちやわん》を置けば、
「そんな事があります物か、力業《ちからわざ》(12)をする人が三膳の御飯のたべられぬと言ふ事はなし。気合ひ(13)でも悪うござんすか、それとも酷《ひど》く疲れてか」
と問ふ。
「いや何処も何とも無いやうなれど、唯《ただ》たべる気にならぬ」
といふに、妻は悲しさうな目をして、
(9)太吉のこと。
(10)べつだん心に何かを思うというわけではないが。
(11)まったく食欲がない。
(12)力仕事。
(13)気分。
「お前さん又例のが(14)起りましたらう、それは菊の井の鉢肴《はちざかな》(15)は甘《うま》くもありましたらうけれど、今の身分で思ひ出した処が何となりまする、先は売物買物(16)お金さへ出来たら昔しのやうに可愛がつてもくれませう、表を通つて見ても知れる、白粉《おしろい》つけて美《い》い衣類《きもの》きて迷ふて来る人を誰《た》れかれなしに丸める(17)があの人達が商売、ああ我《お》れが貧乏に成つたから搆《かま》いつけてくれぬなと思へば何の事なく済《すみ》ましよう、恨みにでも思ふだけが(18)お前さんが未練でござんす、裏町の酒屋の若い者知つてお出《いで》なさらう、二葉やのお角《かく》に心《しん》から落込んで(19)かけ先(20)を残らず使ひ込み、それを埋めやうとて雷神虎《らいじんとら》が盆筵《ぼんござ》の端《はし》についたが身の詰り(21)、次第に悪るい事が染《し》みて終《しま》ひには土蔵やぶり(22)までしたさうな、
(14)いつもの病気。すなわち、お力への未練。
(15)鉢に盛ったさかな。料理のこと。
(16)金銭で動く商売女。酌婦お力は私娼だから、さげすんでこう言った。
(17)だまして客にする。
(18)うらみに思うだけでも。
(19)色香にすっかり夢中になって。
(20)掛け売りで商品をおさめた得意先。ここでは、集めた代金のことをいっている。
(21)「雷神虎」は、ばくち打ちの名前で、このばくち場に足を踏み入れたのがわが身の行き詰まりとなり。「盆筵」は、ばくちの壺を伏せるござ。
(22)土蔵を破って財物を盗み出す泥棒。
当時《いま》男は監獄(23)入りしてもつそう飯《めし》(24)たべていやうけれど、相手のお角は平気なもの、おもしろ可笑《をか》しく世を渡るに咎《とが》める人なく美事《みごと》繁昌してゐまする、あれを思ふに商売人の一徳(25)、だまされたは此方《こちら》の罪、考へたとて始まる事ではござんせぬ、それよりは気を取直して稼業《かげふ》に精を出して少しの元手も拵《こしら》へるやうに心がけて下され、お前に弱られては私もこの子もどうする事もならで、それこそ路頭に迷はねば成りませぬ、男らしく思ひ切る時あきらめて(26)お金さへ出来ようならお力はおろか小紫《こむらさき》(27)でも揚巻《あげまき》(28)でも別荘こしらへて囲うたら宜うござりましよう、もうそんな考へ事は止《や》めにして機嫌よく御膳あがつて下され、坊主までが陰気らしう沈んでしまいました」
といふに、
(23)刑務所。
(24)物相で型抜きした飯。ここでは牢獄で物相に盛った飯のこと。物相は、飯を盛って量をはかる器で、ふつうは円筒形の曲げ物。
(25)商売女の一つの利得。
(26)思い切るべきときに思い切って。
(27)江戸初期の江戸吉原三浦屋の遊女。強盗を働いて刑死した愛人、白井権八のあとを追って自殺した。浄瑠璃や歌舞伎などに脚色されている。
(28)歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」のヒロイン。吉原三浦屋抱えの遊女で、相手役の助六は江戸浅草花川戸の侠客、実は曾我五郎時致という設定になっている。"張りと意気地"の吉原女性の典型とみられていた。
みれば、茶椀と箸を其処《そこ》に置いて、父と母との顔をば見くらべて、何とは知らず気になる様子、「こんな可愛い者さへあるに、あのやうな狸《たぬき》(29)の忘れられぬは何の因果か」と胸の中かき廻されるやうなるに、「我れながら未練ものめ」と叱《しか》りつけて、
「いや、我《お》れだとて、その様に何時《いつ》までも馬鹿ではいぬ。お力などと名ばかりも(30)いつてくれるな。いはれると以前《もと》の不出来《ふでか》し(31)を考へ出して、いよいよ顔があげられぬ。何の、この身になつて今更何をおもふ物か。食《めし》がくへぬとてもそれは身体《からだ》の加減であらう、何も格別案じてくれるには及ばぬ故、小僧(32)も十分にやつてくれ(33)
とて、ころりと横になつて胸のあたりをはたはたと打あふぐ、蚊遣《かやり》の烟《けむり》にむせばぬまでも、思ひにもえて(34)身の暑げなり。
(29)お力のこと。人をたぶらかす人とみた。
(30)名前すら。
(31)失敗。しくじり。
(32)太吉のこと。男の子に対する父親の愛情がこもってこう呼んだ。
(33)食べてくれ。
(34)お力に対する愛憎の思い、いまの家の境遇への憂いなど「思ひ」に尽きることはない。「思ひ」の「火」と「もへて」は「烟」の縁語。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から

「蚊に食われるから、早くおあがんなさいな」とお初もうながす。
ああそうだったと源七は、太吉をあらいはじめた。それから自分もあびた。上にあがると、お初が、洗いざらしのさばさばした浴衣を出してきた。それを着て、帯をまきつけ、風のとおるところへ行った。お膳は、能代塗りの、はげかかって足のぐらつくしろものである。「あなたの好きな冷奴にしましたよ」と、お初は、小丼に豆腐を浮かせて青じそをそえたのをその上にならべる。太吉も、台から飯びつをおろして、 よいしょよいしょとはこんでくる。「ぼうずはおれのそばにこい」と源七は太吉の頭を撫でて、箸をとった。

考えごとをしているわけではない。それでも、舌に感覚がなくなっているようだ。咽喉の穴がはれあがっているようだ。
「もうやめにする」と源七は茶碗をおいた。
「そんなことがありますか、カ仕事をする人がごはん三膳食べられなくてどうするの、気分でもわるい んですか、ひどく疲れたんですか」
「いや、どこもなんともない、ただ食べる気にならないんだ」
お初は悲しそうな目をしていった。

「あなた、また例のがおこったのね、菊の井のお料理がいくらおいしくたって、今の身分で思い出してどうなるんですか、あちらは売り物買い物、お金さえできたら昔みたいにかわいがってくれますよ、表をとおって見るだけでわかります、白粉つけていいきものをきて、迷いこんでくる人たちをだれかれなしにだますのがあの人たちの商売なんだから、ああ、お れが貧乏になったからもうかまってくれないんだなと思えばいいことなんです、恨みに思うなんて、未練たらしい、裏町の酒屋の若いものの話、きいたでしょう、二葉やのお角にのめりこんで、集金したのを残らず使いこんで、それを埋めるのにばくちに手を出して、それからというもの、みるみるわるい道にはまってって、とうとう土蔵やぶりまでして、今、男は監獄に入れられてるそうだけど、相手のお角ったらへいきな顔して 、あいかわらずおもしろおかしく世をわたって、人になんにもいわれない、ますます繁盛してるっていうじゃありませんか、商売女だ からそれですむんです、だまされたのはこっちが悪いんです、今さら考え たってはじまることじゃないし、それより早く気をとりなおして、仕事に精を出して、元手をすこしでも作るようにしてくださいな、今、あなたに倒れられたら、あたしもこの子もどうしようもなくなって、それこそ路頭に迷わなくちゃならなくなる、ね、男らしく、思い切るときはすっぱりあきらめて、お金さえできたらおカどころか小紫でも揚巻でも、別荘をたてて囲えると 思って、ほらもう、そんな考えごとはやめにして、機嫌よくごはんをたべてくださいな、この子まで沈みこんでしまったわ」

子どもは、茶碗と箸をおいて、わけはわからないが気にかかるといったふうに、父と母の顔を見くらべている。こんなかわいい子どももいるのに、あんなたぬきが忘れられない のは何の因果だと、源七は胸の中がかきまわされるような思いがする。われながら未練ものめと自分を叱りつける。
「いや、おれだって、そんなにいつまでも馬鹿じゃいられない、お力なんて名前も出さないでくれ、自分のしでかした不始末を考えはじめると、いよいよ顔もあげられなくなる、なんの、こんな身になって今さら何を思うものか、飯が食えないっていったって、そんなのはただの身体の加減だよ、何も心配してくれなくたっていいんだ、さあ、ぼうずもたくさんたべるんだぞ」
源七はごろりと横になって、胸のあたりをばたばたとうちあおいだ。蚊やりの煙にむせんでいるわけじゃない。でも思いは胸にもえている。それでからだがほてるのである。

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