にごりえ⑪
狭苦しい露地。ドブを挟んだ棟割長屋にある、みすぼらしい源七の家のようすが描かれていきます。
四
同じ新開の町はづれに、八百屋と髪結床《かみゆひどこ》が庇合《ひあはひ》(1)のやうな細露路、雨が降る日は傘もさされぬ(2)窮屈さに、足もととては処々《ところどころ》に溝板《どぶいた》の落し穴(3)、あやふげなるを中にして、両側に立てたる棟割《むねわり》長屋、突当りの芥溜《ごみため》わきに九《く》尺二間《けん》(4)の上《あが》り框《がまち》朽ちて(5)、雨戸はいつも不用心のたてつけ(6)、さすがに一方口《いつぱうぐち》にはあらで(7)、山の手の仕合《しやわせ》は(8)、三尺ばかりの椽の先に草ぼうぼうの空地面、それが端《はじ》を少し囲つて、青紫蘇《あをぢそ》、ゑぞ菊、隠元豆の蔓《つる》などを竹のあら垣(9)に搦《から》ませたるが、お力が処縁の(10)源七が家なり。
(1)廂(ひさし)が両方から突き出ているところ。家と家とのあいだの小路。
(2)させない。
(3)長屋の路地に排水用の溝が走り、その溝板がところどころ空いている。
家の棟木の下を壁で前後に分けて、それぞれをさらに仕切った長屋。各戸一部屋で、裏口はなく、長野の中でもっとも粗末。
(4)間口九尺(2.7m)、奥行二間(3.6m)の、最貧層が住む狭苦しい家。
(5)「上り框」は、玄関や土間の入口の、内と外を分ける段差に取り付けられた横木。それが腐って。
(6)開閉しずらく半開きの状態なので不用心。
(7)表だけで裏口のない作りではなくて。
(8)しあわせなことに山の手の住宅地なので。山の手は、東京区部の西側の台地にある、本郷・小石川・牛込・四谷・赤坂・青山・麻布などの地域。
(9)粗い結いかたをした竹垣。
(10)お力につながりのある。
女房はお初《はつ》といひて、二十八か九にもなるべし。貧にやつれたれば七つも年の多く見えて、お歯黒《はぐろ》(11)はまだらに、生へ次第の眉毛《まゆげ》みるかげもなく、洗ひざらしの鳴海《なるみ》の裕衣《ゆかた》(12)を前と後を切りかへて(13)、膝のあたりは目立ぬやうに小針のつぎ当、狭帯《せまおび》(14)きりりと締めて蝉表《せみおもて》(15)の内職、盆前よりかけて(16)暑さの時分を、これが時よと大汗になりての勉強(17)せはしなく、揃《そろ》へたる籘《とう》を天井から釣下げて(18)、しばしの手数も省かんとて、数のあがるを楽しみに、脇目《わきめ》もふらぬ様あはれなり。
(11)歯を黒く染めることで、鉄漿 (かね) ともいう。古い鉄屑を焼いて濃い茶の中に投じ、酒、飴などを加えてつくる。風習は上代からあり、公卿や武家なども行なったが、近世では女性だけがつける習慣となった。明治に入っても残ったものの、手当が十分でないため「まだら」になっている。
(12)何度も洗って使っている色の褪せた鳴海絞りのゆかた。鳴海絞りは、名古屋市・鳴海地区で生産される木綿の絞り染め。起源は江戸時代初期、名古屋城築城の頃に遡るとされる。(13)着物の前が擦り切れたので、後ろの部分と取りかえて仕立て直す。
(14)幅狭帯。普通より幅の狭い帯。
(15)駒下駄に張る藤製の表。一葉の家で蝉表の内職をしていたことが日記にある。小ぎれいで場所を取る内職なので、極貧の源七の家にはふさわしくない。
(16)盆前から現時点にかけて。
(17)ここでは内職に精を出すことをさす。
(18)長い藤を床に並べると場所をふさぎ手間がかかるので、天上から下げて引き抜きやすいようにする。
「もう日が暮れたに(19)、太吉《たきち》は何故かへつて来ぬ。源さんも又、何処《どこ》を歩いてゐるかしらん」とて、仕事を片づけて一服吸つけ、苦労らしく(20)目をぱちつかせて、更に土瓶《どびん》の下を穿《ほぢ》くり(21)、蚊いぶし火鉢に火を取分けて、三尺の椽《ゑん》に持出《もちいだ》し、拾ひ集めの杉の葉を冠《かぶ》せてふうふうと吹立《ふきたつ》れば、ふすふすと烟《けぶり》たちのぼりて軒場《のきば》にのがれる蚊の声悽《すさ》まじし(22)。
太吉はがたがたと溝板の音をさせて、
「母《かか》さん、今戻つた。お父《とつ》さんも連れて来たよ」
と門口《かどぐち》から呼立《よびたつ》るに、
「大層おそいではないか、お寺の山(23)へでも行《ゆき》はしないかとどの位案じたらう。早くお這入《はいり》」といふに、太吉を先に立てて源七は元気なくぬつと上る。
(19)日暮れだというのに。
(20)心配性らしく。
(21)火種をさがしている。
(22)「し」は過去の助動詞「き」の連体止。西鶴調。
(23)後に源七一家に不吉な運命をもたらすことになるところ。
「おや、お前さんお帰りか。今日はどんなに暑かつたでせう。定めて帰りが早からうと思うて、行水を沸かして置ました(24)、ざつと汗を流したらどうでござんす。太吉もお湯《ぶう》に這入な」
といへば、
「あい」
と言つて帯を解く。
「お待お待、今、加減を見てやる」とて流しもとに盥《たらい》を据へて釜《かま》の湯を汲出《くみいだ》し、かき廻して手拭《てぬぐひ》を入れて、
「さあお前さん、この子をもいれてやつて下され。何をぐたりと為《し》てお出《いで》なさる、暑さにでも障りはしませぬか。さうでなければ一杯あびて、さつぱりに成つて御膳(25)あがれ。太吉が待つてゐますから」
といふに、
「おおさうだ」
と思ひ出したやうに、帯を解いて流しへ下りれば、そぞろ(26)に昔しの我身(27)が思はれて、「九尺二間の台処で行水つかふとは夢にも思はぬもの。ましてや、土方の手伝ひして車の跡押《あとおし》(28)にと親は生《うみ》つけても下さるまじ。ああつまらぬ夢を見たばかりに」と、ぢつと身にしみて、湯もつかはねば、
「父《とつ》ちやん、脊中《せなか》洗つておくれ」
と太吉は無心に催促する。
(24)行水のためのお湯を沸かしておきました。
(25)ごはん、食事。
(26)これといった理由もなしにそうなったり、そうしたりする。なんとなく。
(27)蒲団屋の主人として幅を利かせていたころの当時。
(28)荷車のあと押し。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から
四
同じ新開の町はずれに、 八百屋と床屋の庇(ひさし)がくっつきあっているような露地がある。 狭くるしくて、雨の日は傘もさせない。 どぶ板はところどころはずれて、落し穴ができている。どぶをはさんで両側に、棟割り長屋が立っている。その中で、つきあたりの、ごみためのそばの一軒が、お力の、例の源七(げんしち)の家である。狭くてみすほらしいだけじゃない。上がりかまちはくさっている。雨戸はたてつけが悪くて不用心である。それでも、裏にまわれば小さな縁側があって、そこから外に出られる。外は草ばうばうの空き地である。そのはじを少しかこって、青じそやえぞ菊がつくってある。いんげん豆の蔓を竹垣にからませてある。
女房はお初という。二十八か九になるが、貧乏ぐらしですっかりやつれて、七つは老けて見える。おはぐろもまだらのまま、眉毛も生えほうだい生やしてなるみいる。着ているものは洗いざらしの鳴海しぼりのゆかたである。前身と後身を切りかえて縫いなおし、膝のあたりはこまかく目立たないようにつぎをあててある。幅の狭い帯をきりりとしめて、皹表(せみおもて)の内職をしている。盆の前からきゅうに暑さがひどくなった。その中で、お初は、大汗をかきながら、いっしんふらんに仕事をしている。材料の籐はそろえて天井からつりさげてある。一つでも多く手ぎわよくと、考えるのはそればかりである。
日が暮れたのに太吉(たきち)はなぜ帰ってこないのかしら、源さんもまたいったいどこを歩いているのかしらと、お初は仕事を片づけて、たばこに火をつけた。 一服すって、疲れた目をばちつかせると、土瓶(どびん)の下をほじくりはじめた。蚊いぶしの火鉢に火をとりわけて、縁側にもちだした。ひろいあつめた杉の葉をかぶせて、ふうふうとふきたてた。ふすふすと煙がたちのぼる。蚊がすさまじいうなり声をあげて軒端(のきば)にのがれていく。そこへがたがたとどぶ板を鳴らして太吉が帰ってきて、門口から呼びたてた。
「かあちゃん、ただいま、おとうちゃんもいっしょにつれてきたよ」
「ずいぶんおそかったねえ、 お寺の山に行ったんじゃないかと思って、かあさん心配してたんだよ、早くおはいり」
太吉をさきにたてて、源七は元気なくぬっと上がってきた。
「おかえりなさい、今日は暑かったでしょう、きっと帰りが早いだろうと思って、行水をわかしておきましたよ、ざっと汗をながしたらどう、太吉もお湯におはいり」
はいと返事して、さっそく太吉は帯をときはじめた。
「おまち、おまち、今湯加減をみてやるから」とお初は流しもとにたらいをすえて、釜の湯をくみだした。かきまわして、手ぬぐいを入れてやる。
「さあ、この子も入れてやってくださいよ、どうしたの、なにをぐったりしてるんですか、暑さにでもあたったんですか、何ともないんなら、ほら行水(ぎょうずい)をあびて、さっぱりして、ごはんにしましょう、太吉が待ってますよ」
おおそうだと源七も思い出したように帯をといて、下におりて湯に浸かった。すると、なんだか昔の自分を思い出した。こんな裏長屋の台所で行水をつかうことになるとは夢にも思っていなかった。まして土方の手伝いで車の後押しをするなんて、産みの親だって思っていなかったにちがいない。つまらない夢を見たばかりにこんなことになったのだという思いがじっと身にしみてくる。父親がたら いの中でみじろぎもしないので、「おとうちゃん、せなかをあらっておくれ」とむじやきに太吉がさいそくする。
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