にごりえ⑩
むくりとおきあがった結城に対して、お力は涙ぐみつつ話します。
「大方、逆上性《のぼせせう》(1)なのでござんせう。貴君の事をもこの頃は夢に見ない夜《よ》はござんせぬ。奥様のお出来なされた処を見たり、ぴつたりと御出のとまつた処を見たり、まだまだ一層《もつと》かなしい夢(2)を見て、枕紙《まくらがみ》(3)がびつしよりに(4)成つた事もござんす。高ちやんなぞは夜る寐《ね》るからとても、枕を取る(5)よりはやく鼾《いびき》の声たかく、宜《い》い心持らしいが、どんなに浦山《うらやま》しうござんせう。私はどんな疲れた時でも床へ這入《はい》ると目が冴《さ》へて、それはそれは色々の事を思ひます。貴君は私に思ふ事があるだらうと、察してゐて下さるから嬉しいけれど、よもや、私が何をおもふか(6)、それこそはお分りに成りますまい。考へたとて仕方がない故《ゆゑ》、人前ばかりの大陽気、菊の井のお力は行《ゆき》ぬけの締りなし(7)だ、苦労といふ事はしるまいと言ふお客様もござります。ほんに因果(8)とでもいふものか、私が身位かなしい者はあるまいと思ひます」
とて潜然《さめざめ》とするに(9)、
(1)男に惚れやすい気質。熱中しやすい性質。
(2)結城が死んだような夢。
(3)木枕のうえに載せた小さな枕を髪油で汚さないように包む紙。
(4)涙でぬれて。
(5)枕を頭につける。
(6)お力が心の奥にしまっている秘密は、お力のような境遇や性格でないと推しはかれない。
(7)無鉄砲で、出たとこ勝負。「行ぬけ」は、行き止まりがない意から、限度のない、底抜けであること。
(8)不幸な運命に生れつくこと。前に行なった業の報い。
(9)しきりに涙を流して静かに泣く。
「珍らしい事、陰気のはなしを聞かせられる。慰めたいにも本末《もとすゑ》(10)をしらぬから方《はう》がつかぬ(11)。夢に見てくれるほど実《じつ》が(12)あらば、奥様にしてくれろ位いひそうな物だに、根つからお声がかりも無いはどういふ物だ。古風に出るが(13)、袖《そで》ふり合ふも(14)さ。こんな商売を嫌《いや》だと思ふなら、遠慮なく打明けばなしを為《す》るが宜い。僕は又、お前のやうな気では、寧《いつそ》気楽だとかいふ考へで浮いて渡る(15)事かと思つたに、それでは何か理屈があつて止《や》むを得ずといふ次第か、苦しからずは(16)承りたい物だ」(10)一部始終。
といふに、
(11)見当がつかない。
(12)真実の愛情が。
(13)古風な言いかたをするが。
(14)袖ふりあうも他生の縁。道を行くとき、見知らぬ人と袖が触れ合う程度のことも前世からの因縁による。どんな小さなことも偶然ではなく、すべて深い宿縁によって起こるのだということ。
(15)おもしろおかしく世のなかを暮す。
(16)苦しくなければ。さしつかえなければ。
「貴君(あなた)には聞いて頂かうと、この間から思ひました。だけれども今夜はいけませぬ」(17)月の光。月のあかり。
「何故々々《なぜなぜ》」
「何故でもいけませぬ。私が我まま故、申《まをす》まいと思ふ時はどうしても嫌やでござんす」
とて、ついと立つて椽《えん》がはへ出《いづ》るに、雲なき空の月かげ(17)涼しく、見おろす町にからころと駒下駄《こまげた》の音さして(18)、行《ゆき》かふ人のかげ分明《あきらか》なり。
「結城さん」
と呼ぶに、
「何だ」
とて傍《そば》へゆけば、
「まあ此処へお座りなさい」と手を取りて、
「あの水菓子屋(19)で桃を買ふ子がござんしよ。可愛らしき四つばかりの、彼子《あれ》が先刻《さつき》の人のでござんす。あの小さな子心《こごころ》(20)にもよくよく憎くいと思ふと見えて、私の事をば鬼々といひまする。まあ、そんな悪者に見えまするか」
とて、空を見あげてホツと息をつくさま、堪《こら》へかねたる様子は五音《いん》の調子(21)にあらはれぬ。
(18)音をさせて。
(19)くだもの屋。
(20)子どもの心。
(21)声の調子。こわね。伝統的な中国音韻学においての声母は、喉音(こうおん)・顎音(がくおん)・舌音(ぜつおん)・歯音(しおん)・唇音(しんおん)からなる。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
「のぼせ性なんでしょう、あたしは、あなたのことだってこのごろは夢にみない夜はないくらい、奥さんのできたところを見たり、ぱったり来なくなったところを見たり、いいえまだまだ 、もっとかなしい夢を見て、目がさめたら枕紙がびっしょり濡れてたなんてこともあるわ、高ちゃんなんて枕に頭をつけるが早いか高いびきをかいて、きもちよさそうに寝ついちゃうけど、あたしはど んな疲れたときでもおふとんに入ると目がさえちゃって、それはそれはい ろんなことを考えちゃって、あなたはあたしに脳みがあるんだろうって察してくれるからうれしいけど、でもあたしがいったい何をかんがえているのか、それはぜったいわかってくれないと思うの、考えたってしょうがないから、人前でだけはげんきにはしゃいでみせてると、よそのお客さまなんて、菊の井のお力は、行きぬけのしまりなしだ、苦労しらずだなんていうの、因果なのかしら、あた しほどかなし い思いしてるものはいないと思うのに」とお力は涙ぐんでしょんぼりする。
「めずらしいじゃないか、こんな暗いはなし、慰めてやりたいけど、理由がわからないから慰めようがない、夢にみてくれるほどおれのことを思ってくれてるなら、奥さんにしてくれぐらいいったっていいのに、そんなことはおくびにもださないってのはどういうことだい、袖ふりあうもなんとかた、この仕事をいやだと思ってるんなら遠慮なく打ち明けてくれればいいんだ、おれはまた、おまえみたいな性格の女はこの方がいっそ気楽だというんでこんなふうにふわふわ暮らしてるのかと思ってた、 いったいどんな理由があってこういうことをやってるのか、おまえさえよければ、おれはきいてみたいんだよ」
「あなたにはきいてもらおうと、この間から思ってたんです、でも今夜はだめ」
「なぜ」
「なぜでもだめなの、あたしはわがままだから、いいたくないと思うときはどうしてもいやなの」
お力はついと立って縁側へ出た。雲のな い空の月かげがすずしく冴えわたる。からころと駒下駄の音をたてて行きかう人の影もはっきりと見える。「結城さん」とお力が呼んだ。
「なんだ」
「まあここへすわって」
そばに来た結城の手をとって、 「ほら、あの果物屋で桃を買ってる子がいるでしょ、かわ いらしい、四つばかりの、あれがさっきの人の子なの、あんな小さな子どもでも、子ども心によくよくあたしが憎いらしいの、あたしを見るたび、おに、おにっていうのよ、ねえ、そんなにあたしは、悪い人間に見えるのかしら」
空をみあげてお力はためいきをついた。 もうがまんできないというようなためいきをついた。
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