にごりえ⑨

この小説の重要人物である「源七」が、お力に紹介されるかたちで登場します。 

折から下坐敷より杯盤(1)を運びきし女の、何やらお力に耳打して(2)「ともかくも下までお出《いで》よ」といふ。
「いや、行きたくないからよしておくれ。今夜はお客が大変に酔ひましたから(3)、お目にかかつたとてお話しも出来ませぬと断つておくれ」
「ああ、困つた人だね」
眉《まゆ》を寄せる(4)に、
「お前、それでも宜《い》いのかへ」
「はあ、宜いのさ」
とて膝《ひざ》の上で撥《ばち》を弄《もてあそ》べば(5)、女は不思議さうに立つてゆくを、客は聞すまして笑ひながら、
「御遠慮には及ばない、逢《あ》つて来たら宜からう(6)。何もそんなに体裁には及ばぬ(7)ではないか。可愛い人を素戻《すもど》し(8)もひどからう、追ひかけて逢ふが宜い。何なら此処へでも呼び給へ、片隅へ寄つて、話しの邪魔はすまいから」
といふに、

(1)杯に皿、鉢など、酒宴のための道具類。
(2)結城をはばかり、(源七のことについて)お力だけに聞えるようにささやく。
(3)「お客が」は「お客で」。お客の相手をして大変に酔ってしまいましたから。
(4)顔をしかめる。不愉快な表情。
(5)三味線の撥をおもちゃにしている。思案するしぐさ。
(6)客が寛大な人らしいことをうかがわせる。
(7)体裁をつくる必要はない。本心は会いたいだろうに、客の私の手前をつくろって断りを言わせる必要はない、という気持ち。
(8)逢わずにそのまま帰してしまう。

「串談《じようだん》はぬきにして、結城さん、貴君に隠くしたとて仕方がないから申《まをし》ますが、町内で少しは幅もあつた(9)蒲団やの源七といふ人、久しい馴染《なじみ》でござんしたけれど、今は見るかげもなく貧乏して、八百屋の裏の小さな家《うち》にまいまいつぶろ(10)の様になつていまする。女房《にようぼ》もあり、子供もあり、私がやうな(11)者に逢ひに来る歳《とし》ではなけれど、縁があるか未《いま》だに折ふし(12)何のかのといつて、今も下座敷へ来たのでござんせう、何も今さら突出す(13)といふ訳ではないけれど、逢つては色々面倒な事もあり、寄らず障《さわ》らず(14)帰した方が好いのでござんす。恨まれるは覚悟の前、鬼だとも蛇だとも思ふがようござります」
とて、撥《ばち》を畳に(15)、少し延びあがりて表を見おろせば、
「何と、姿が見えるか」
と嬲《なぶ》る。
(9)はぶりもきいた。蒲団の縁語的表現として「幅」を用いている。
(10)カタツムリ。
(11)私のような。
(12)ときどき。たまに。
(13)追い出す。金を払えなくなったなじみ客が面会を強いれば、その筋の男たちに追い出されるのが常だ。
(14)あたらず 触らず。
(15)撥を畳のうえに置いて。
「ああ、もう帰つたと見えます」
とて茫然《ぼん》として(16)ゐるに、
「持病といふのはそれか」
切込まれて(17)
「まあ、そんな処でござんせう、お医者様でも草津の湯でも(18)
薄淋《うすさび》しく(19)笑つてゐるに、
御本尊(20)を拝みたいな、俳優《やくしや》で行つたら誰れの処だ(21)
といへば、
「見たら吃驚《びつくり》でござりませう。色の黒い背の高い不動さまの名代(22)
といふ。
「では心意気か(23)
と問はれて、
「こんな店で身上《しんしやう》はたく(24)ほどの人、人の好《い》いばかり、取得とては皆無でござんす。面白くも可笑《をか》しくも何ともない人」
といふに、
「それにお前はどうして逆上《のぼ》せた(25)、これは聞き処(26)
と客は起かへる。
(16)あっけにとられて。気抜けしてぼんやりして。「ぼん」という読みが効いている。
(17)問い詰められて。
(18)草津温泉(群馬県)の湯もみ歌の一節。「お医者様でも 草津の湯でもア ドッコイショ惚れた病は コーリャ治りゃせぬヨチョイナ チョイナ・・・・・・」による。
(19)なんとなく、どことなくさびしい。複雑なお力の心情が表れている。
(20)事件の中心人物。御当人。ここでは、お前の好いて大切に思っているその男を。
(21)俳優でたとえていうと誰みたいだ。
(22)不動明王の代理。不動明王は、五大明王・八大明王の主尊で、忿怒の相をとる。形相は色青黒く獰悪(どうあく)で、眼を怒らし、左は半眼、額に水波の相がある。右に降魔の剣を、左に羂索(けんさく)を持つ。
(23)気だて、心ばえ、気性がいいのか。
(24)全財産を使いはたす。
(25)すっかり夢中になる。熱中する。 
(26)聞くねうちのある個所。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から

そのとき下座敷からお銚子をはこんできた女がお力に耳打ちして、「ともかくも下までおいでよ」とささやいた。
「いやよ、いきたくないからほっといてよ、今夜はお客がよっぱらっちゃって、会ったっておはなしもできませんってことわってくれない、まったく困った人なんだから」とお力は眉をよせた。
「あん たそれでもいいの」
「い いのよ」とお力は膝の上で撥をもてあそんでいる。女はけげんな顔をして出ていった。
そのやりとりをきいていた結城は、笑いながらいった。

「遠慮しなくたっていい、会ってきたらいいよ、何もそんな他人行儀なことしなくたっていいじゃないか、かわいい人にむだ足ふませちゃいけない、おいかけていって会ってこいよ、なんならここへ呼んだらいいよ、おれは片隅にいてはなしのじゃまはしないからさ」

「冗談はぬきにして結城さん、あなたに隠したってしょうがないからいいますけどね、以前はけっこう羽振りのよかったふとんやの源七っていう人、長い間なじみでしたけど、今はみるかげもなく貧乏して八百屋の裏の小さな家に、まいまいつぶりみたいに暮らしてます、奥さんも子どももいるし、あたしみたいなものに会いにきてどうのという年じゃないんですけど、どういうわけか縁が切れないらしくて、いまだにときどきなんのかのといっては来るんです、今も下座敷に来たんでしょう、今さら突きはなしたいわけじゃないんだけど、会ってしまったらいろいろめんどうなことになるでしようから、よらずさわらず帰した方がいいと思うの、恨まれるのは覚悟の上です、鬼と思われたって蛇と思われたってもういいの」と撥を畳において、すこしのびあがって表を見下ろした。

「おいおい姿が見えるのかい」と結城にからかわれて
「ええもう帰ったみたい」とお力はこたえて、そのままばんやりとしている。
「おまえの持病っていうのはそれかい」
「まあそんなところだわ、お医者さまでも草津の湯でもってね」とお力はさびしげに笑っている。
「御本尊をおがみたいなあ、役者でいったら誰みたいな人」と結城にきかれて
「見たらびつくりよ、色の黒い、背のたかい、不動さまの名代みたいな人」
「じゃ気性がいいのか」
「こんな店で身上(しんしょう)はたくほどの人ですもの、人がいいだけでほかにとりえなんかなんにもない、おもしろくもおかしくもなんともない人」
「そうい う男にどうしておまえはのばせあがった、これはきいとかなくちゃ」と結城はむくりとおきあがった。

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