にごりえ⑧
結城は二階の小座敷で、お力の「身の上」をしきりに聞き出そうとします。
或る夜の月に、下《した》坐敷(1)へは何処やらの工場の一連《む》れ、丼《どんぶり》たたいて甚九《じんく》(2)かつぽれ(3)の大騒ぎに、大方の女子《おなご》は寄集まつて、例の二階の小坐敷には結城とお力の二人ぎりなり。朝之助は寝ころんで愉快らしく話しを仕かけるを、お力はうるささうに生返事(4)をして、何やらん考へてゐる様子。(1)二階座敷に対して、階下の座敷。
「どうかしたか、又頭痛でもはじまつたか」
と聞かれて、
「何、頭痛も何もしませぬけれど、頻《しきり》に持病が起つたのです」
といふ。
「お前の持病は肝癪《かんしやく》か」
「いいゑ」
「血の道(5)か」
「いいゑ」
「それでは何だ」
と聞かれて、
「どうも言ふ事は出来ませぬ」
「でも他《ほか》の人ではなし、僕ではないか、どんな事でも言ふて宜さそうなもの。まあ、何の病気だ」
といふに、
「病気ではござんせぬ。唯、こんな風になつてこんな事を思ふのです(6)」
といふ。
(2)甚句。民謡の一種。七・七・七・五の四句形式で、旋律は地域ごとにいろいろある。江戸末期から流行し、秋田甚句、越後甚句、米山甚句、両津甚句、相撲甚句などのほか、酒盛唄や盆踊唄に広く用いられている。
(3)「カッポレカッポレ甘茶でカッポレ」という囃子言葉を含む俗謡に合わせて踊るこっけいな踊り。幕末に起こり、明治中期に全盛期を迎えた。
(4)いいかげんな受け答え。気のない返事。
(5)女性特有の病気の総称。産褥時、月経時、更年期などに血行不順から起こり、頭痛、のぼせ、めまい、精神不安定などの諸症状がある。
(6)持病についてのお力言い方は漠然としていてはっきりしないが、こうした表現によってお力が自身の内面に耳を傾けている様子がうかがわれてくる。
「困つた人だな種々《いろいろ》秘密があると見える。お父《とつ》さんは」(7)かりに(そうであっても)。
と聞けば、
「言はれませぬ」
といふ。
「お母《つか》さんは」
と問へば、
「それも同じく」
「これまでの履歴は」
といふに、
「貴君《あなた》には言はれぬ」
といふ。
「まあ嘘《うそ》でも宜《い》いさ、よしんば(7)作り言にしろ、かういふ身の不幸《ふしあはせ》だとか大底の女《ひと》はいはねばならぬ。しかも一度や二度あふのではなし、その位の事を発表しても子細はなからう(8)。よし口に(9)出して言はなからうとも、お前に思ふ事がある位、めくら按摩《あんま》に探ぐらせても(10)知れた事、聞かずとも知れてゐるが、それをば聞くのだ。どつち道同じ事だから、持病といふのを先きに聞きたい」
といふ。
およしなさいまし、お聞きになつてもつまらぬ事でござんすとてお力は更に(11)取あはず。
(8)差し支えはないだろう。
(9)相手のことばに応じて発することばで「たとい」の意。
(10)「めくら按摩」は、強調で、手探りでもわかる、わかり切ったこと。あんまが手で探って物を捜したずねる意と、秘密を探し求める意を重ねている。
(11)すこしも。全く(…ない)。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から
ある月の夜、下座敷へはどこかの工場の人たちがやって来て、丼たたいて甚九やかつぽれで大さわぎしている。女たちはそっちにあつまってい って、例の二階の小座敷には、結城とお力の二人きりである。結城が寝そべって楽しそうに話しかけるのに、お力はうるさそうに生返事をして、なにか考えている。
「どうかしたのかい、また頭痛でもするのかい」と結城にきかれて
「いいえ頭痛もなんにもしませんけど、さっきから持病が」とお力はいった。
「おまえの持病は、かんしやくかい」
「いいえ」
「血の道かい」
「いいえ」
「それじゃなんだい」ときかれて
「ぜったいいえませんたら」
「ほかでもないおれなんだ、なにをいったっていいじゃないか、ねえ、なんの病気だよ」
「病気じゃないんですもの、ただこんなふうになってこんなふうなことを思うってだけ」
「困った人だな、いろいろ秘密があると見える。おまえのお父さんはどんな人」と結城にきかれて
「いえません」
「じゃおっかさんは」ときかれて
「それもだめ」
「これまでの経歴は」ときかれて
「あなたにはいえませんてば」
「ねえ嘘でもいいからさ、これこれこういう不幸な身の上なんですって、つくりごとにしたって、たいていの女はいうもんだぜ、一度や二度の仲じゃないんだから、そのくらいのことはおれにいってくれたっていいじゃないか、ロに出していわなくたって、おまえがなにか悩んでることぐらい 、あんまにさぐらせたってわかる、きかなくたっていいんだけど、きいてみたいんだ、どっちみち同じことだから、まず、持病って方からきこうかね」と結城がくいさがるが、「よしましょうよ、きいたってつまんないことですもの」とお力はいっこうにとりあわない。
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