にごりえ⑦
お力の上客、結城朝之助のことが明かされていきます。
三
客は結城朝之助《ゆふきとものすけ》(1)とて、自ら道楽ものとは名のれども、実体《じつてい》(2)なる処折々に見えて、身は無職業、妻子なし、遊ぶに屈強なる(3)年頃なればにや(4)、これを初めに一週には二三度の通ひ路《ぢ》、お力も何処《どこ》となく懐かしく思ふかして、三日見えねば文《ふみ》をやるほどの様子を、朋輩《ほうばい》の女子《おんな》ども、岡焼(5)ながら弄《から》かひては、
「力ちやんお楽しみであらうね、男振はよし、気前はよし、今にあの方は出世をなさるに相違ない。その時はお前の事を奥様とでもいふのであらうに、今つから少し気をつけて、足を出したり湯呑《ゆのみ》であほる(6)だけは廃《や》めにおし。人がら(7)が悪いやね」
と言ふもあり、
「源さんが聞たら(8)どうだらう、気違ひになるかも知れない」
とて冷評《ひやかす》もあり。
(1)一葉が思慕の情を寄せていた恩師の半井桃水がモデルと考えられている。
(2)実直。
(3)もってこいの。都合のいい。
(4)であろうか。断定の助動詞「なり」の連用形「に」+疑問の係助詞「や」。
(5)岡焼餠、傍(おか)焼餠。はたで嫉妬する。他人の仲がよいのを、関係ない者がねたむこと。
(6)杯ではなく大きな湯呑でぐいっと飲む。
(7)人の品格。がら。
(8)源七がお力と結城のことを。
「ああ、馬車にのつて来る時(9)都合が悪るいから、道普請からして(10)貰《もら》いたいね、こんな溝板《どぶいた》のがたつく様な店先へそれこそ人がらが悪《わろ》くて横づけにもされないではないか、お前方ももう少しお行義を直してお給仕に出られるやう心がけておくれ」
とずばずばといふに、
「ヱヱ憎くらしい、そのものいひを少し直さずは、奥様らしく聞へまい。結城さんが来たら思ふさま(11)いふて、小言をいはせて見せよう」
とて朝之助の顔を見るよりこんな事を申てゐまする、どうしても私共の手にのらぬやんちや(12)なれば貴君《あなた》から叱《しか》つて下され、第一湯呑みで呑むは毒でござりましよと告口《つげぐち》するに、結城は真面目になりてお力酒だけは少しひかへろとの厳命、ああ貴君のやうにもない(13)お力が無理にも商売してゐられるはこの力(14)と思し召さぬか、私に酒気《さかけ》が離れたら坐敷は三昧堂《さんまいどう》(15)のやうに成りませう、ちつと察して下されといふに成程々々とて結城は二言《ごん》といはざりき。
(9)出世して馬車に乗れるような富貴な身分。「奥様とでもいふ」に応じた。
(10)源七が「土方の手伝」をしているところからこう言った。
(11)思う存分。思いきり。
(12)手の付けられないわがままぶり。
(13)あなたらしくもない。結城の、ものわかりのいい性格を言っている。
(14)酒の力。
(15)僧が籠って念仏三昧を修する堂。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から
客は結城朝之助(ゆうきとものすけ)といった。自分では道楽ものと名のっているが、ときどきふっと、生まじめなところを見せる。きまった勤めも妻子もない。こういうところで遊ぶにはもってこいの年齢でもある。そういうわけで、あれから週に二三度は通ってくるようになった。お力の方でも慕っているようで、三日見えないと手紙をだす。嫉妬心もてつだってか、仲間の女たちはしきりにお力をひやかした。
「カちゃんお楽しみじゃないの、男ぶりはいいし気前はいいし、今にあの方は出世するよ、そのときあんたは奥様ってことになるんだろうから、今っから少し気をつけて、人前で足を出したり湯飲みで酒をあおったりするのだけはやめといた方がいいよ、おさとがしれるから」というのもある。「源さんがきいたらどうだろうね、きちがいになっちゃうかもしれないよ」というのもある。
「ああ、そうだわよ、馬車に乗って来るとき都合がわるいからまず道からなおしといてちょうだいね、こんなどぶ板ががたついてるようなとこがおさとだなんて、それこそみっともなくてくるまを横づけにもできないよ、あんたたちももう少しお行儀よくしてくれな いと、そのまんまじゃお給仕にだってでられやしないわよ」と、お力もだまっていないのである。
「まったくにくたらしいね、そのロのわるいのをちょっと直さないと奥様らしくきこえないよ、見ておいで、結城さんがきたら思いっきりいいつけて、叱ってもらうから」と女たちは結城をつかまえて告げ口をした。
「こんなことをいってるんですよ、あたしたちのいうことはどうしてもききやしないやんちゃなんです、あなたから叱ってやってくださいな、だいいち湯飲みで飲むなんてからだに毒じゃありませんか」
それで結城も、「お力、 酒だけはひかえろよ」と真顔で忠告したことがある。 「あら、あなたまでそんなこといって」とお力がいった。
「あたしがこんなにはしゃいでこの仕事していられるのも、お酒の力があるからよ、あたしからお酒がぬけたら、お座敷がお通夜みたいになっちゃうわ、ね、そのへんはわかってちょうだいよ」
そういわれて結城は二度と酒のことを口に出さなかった。
コメント
コメントを投稿