にごりえ⑥

 「御大身」のお客とお力との色街らしいやり取りが描かれていきます。

化物ではいらつしやらないよ(1)と鼻の先で言つて、
「分つた人に御褒賞《ごほうび》だ」
と懐中《ふところ》から紙入れを出《いだ》せば、お力笑ひながら、
「高ちやん、失礼をいつてはならない。このお方は御大身《ごたいしん》(2)の御華族様、おしのびあるき(3)の御遊興さ。何の(4)商売などがおありなさらう、そんなのでは無い」と言ひながら、蒲団《ふとん》の上に乗せて置きし紙入れを取あげて、
お相方《あいかた》の高尾(5)にこれをばお預けなされまし、みなの者に祝義でも遣《つか》はしませう」
とて答へも聞かずずんずんと引出《ひきいだ》す(6)を、客は柱に寄かかつて眺めながら小言もいはず、「諸事おまかせ申す(7)」と寛大の人なり。
(1)客の言葉。
(2)身分が貴い。位が高く、祿高の多いこと。金持ちも含めて呼んでいる。
(3)身分の高い人が他人に知られないようにこっそり出歩くこと。
(4)どうして(反問)
(5)「相方」は、客の相手をする女。「高尾」は、江戸時代前期の吉原を代表する遊女で、二代目高尾(万治高尾)のこと。仙台藩主・伊達綱宗の意に従わなかったため、船中で惨殺されるといわれる。ここでは、客を網宗、お力を高尾に見立てている。
(6)紙幣を引き出す。
(7)客も大名のように鷹揚に言っている。
お高はあきれて、
「力ちやん、大底におしよ(8)
といへども、
「何いいのさ。これはお前に、これは姉さんに、大きいの(9)で帳場の払ひを取つて、残りは一同《みんな》にやつても宜いと仰しやる。お礼を申《まをし》て頂いてお出で」
と蒔散《まきち》らせば、これをこの娘《こ》の十八番(10)に馴れたる事とて、さのみ(11)は遠慮もいふてはゐず、
「旦那、よろしいのでございますか」と駄目を押して(12)
「ありがたうございます」
と掻《か》きさらつて行くうしろ姿、
「十九にしては更《ふ》けて(13)るね」
と旦那どの笑ひ出すに、
「人の悪るい事を仰しやる」
とてお力は起《た》つて障子を明け、手摺《てす》りに寄つて、頭痛をたたく(14)に、
「お前はどうする、金は欲しくないか」
と問はれて、
「私は別にほしい物がござんした。此品《これ》さへ頂けば何より」
と帯の間から客の名刺をとり出して(15)、頂くまねをすれば、
「何時《いつ》の間に引出した、お取かへに(16)は写真をくれ」
とねだる。
(8)いい加減にしなよ、いたずらが過ぎる。
(9)金額が多い紙幣。
(10)得意の芸。 おはこ。もとは、7代目市川團十郎が制定した市川家の歌舞伎十八番物、不破、鳴神(なるかみ)、暫(しばらく)、不動、嫐(うわなり)、象引、勧進帳、助六、外郎売(ういろううり)、押戻、矢の根、関羽、景清、七つ面、毛抜、解脱、蛇柳、鎌髭を指す。
(11)それほど(…ない)。さして(…でない)。格別(…でない)。
(12)万一の場合を考えてさらに確かめる。駄目を詰めてふさぐ囲碁の用語から。
(13)年を取って。
(14)頭痛のするところを拳などで軽くたたく。一葉も頭痛もちで苦しんだという。「四、五日脳痛はげしく」(明治26年9月10日の日記)
(15)名刺をとり出しているわけだから、結城朝之助という名前をお力が知っていたことがわかるが、売春婦にとっては一人の男でしかないと一葉が考えていたことがうかがえる。
(16)名刺と引き換えに。客の言葉。

「この次の土曜日に来て下されば、御一処にうつしませう」とて帰りかかる客をさのみは止めもせず、うしろに廻りて羽織をきせながら、
「今日は失礼を致しました、またのお出《いで》を待ます」
といふ。
「おい、程のいい事(17)をいふまいぞ、空誓文《そらせいもん》(18)は御免だ」
と笑ひながら、さつさつと立つて階段《はしご》を下りるに、お力、帽子を手にして後《うしろ》から追ひすがり、
「嘘か誠か、九十九夜《よ》の辛棒をなさりませ(19)。菊の井のお力は鋳型《いがた》に入つた女(20)でござんせぬ、又、形《なり》のかはる(21)事もありまする」
といふ。旦那お帰りと聞て、朋輩の女、帳場の女主《あるじ》もかけ出して、「唯今はありがたう」と同音の御礼、頼んで置いた(22)が来《き》しとて、此処《ここ》からして乗り出せば、家中《うちぢう》表へ送り出して、「お出を待まする」の愛想、御祝義の余光《ひかり》(23)としられて、後《あと》には力ちやん大明神様、これにもありがたうの御礼山々(24)

(17)調子のいいこと。
(18)いつわりの誓文。口先だけの約束の文句。「から」は接頭語。
(19)百日も通ってごらんなさいという意。小野小町を愛した深草少将が、百日間通い続けたら結婚してもいいと言う小町のもとへ九十九夜通ったが、百日目の夜、雪に埋まって遂げられなかったともいう言い伝えを踏まえている。
(20)型通りで、感情が乏しくて面白みの少ない女性。
(21)様子が変わる。
(22)人力車。
(23)客のくれた心づけ(祝儀)のおかげ。
(24)お礼の言葉が集積すること。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。





《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から

「化け物はしてらっしゃらないよ」と客はおどけて、懐から財布を出した。「わかった人にご褒美だ」
お力も笑いながら、「高ちゃん、失礼なことをいっちゃだめよ、このお方はね、大金持ちのお華族さまで、おしのびの最中なの、だからお仕事なんてないのよ、そんなことしなくていいご身分なんだもん」

お力は座布団の上にのせておいた財布を取ると、芝居がかった口調で、「おとのさま、高尾にこれをばお預けなさいまし、みなの者に祝儀でもっかわしましょう」
客にことわりもしないで、ずんずん金を引き出しはじめた。客は柱によりかかってながめながら、諸事よきにはからえと、とのさまらしくかまえている。

「カちゃんいいかげんにしなよ」とお高がいうけれども
「あらいいのよ、これはあんたに、これはねえさんに、大きいので帳場の払いを取って、残りはみんなにやってもいいとおっしゃる、おとのさまにお礼を申しあげていただくがよい」
お力は金をまきちらした。高尾ごっこにもちこんでお祝儀をせしめるのは、じつはお力の十八番である。お高も馴れているから、遠慮もそこそこに、旦那よろしいんでございますかとだめおしをすると、ありがとうございますと金をかっさらって出ていった。その後ろ姿を見おくって客が笑い出した。

「十九にしては老けてるね」
「人のわるいことをいうのね」
お力は立ちあがって障子をあけた。手摺によりかかって、頭痛のする頭をしきりにたたいている。
「おまえはどうなの、金はほしくないのか」
「あたしはべつにほしいものがあったの、これ」
お力は帯の間から客の名刺をとりだして、ちょっとささげるまねをした。

「これさえいただけば、なにもいらない」
「いつの間に引き出したんだ、そのかわりにおまえの写真をくれなくちゃだめだよ」
「この次の土曜日にきてくださいな、いっしょに写真をとりましょうよ」
帰ろうとする客を、お力はべつにひきとめようともしない。客の後ろにまわって羽織を着せかけながら
「今日は失礼いたしました、またぜひ来てくださいね」
「おい調子のいいことをいうなよ、空そら誓せい文もんはごめんだよ」
客は笑いながら、さっさと階段を降りていった。お力は帽子を手にして後ろからおいすがった。

「うそかほんとか、九十九夜の辛抱をしてみてくれたらわかるわ、菊の井のお力は鋳型にはいった女じゃない、また違うすがたに変身するかもしれない」
旦那のお帰りときいて、お高や帳場の女主人もかけ出してきた。ただ今はありがとうございましたと口々に礼をいい、家中そろって、車に乗りこむ客を見送り、またのおいでをおまちしておりますと斉唱する。この愛想のよさは、さっきのご祝儀のききめである。お客の帰ったあとにも、カちゃん、おカ大明神さまさま、ありがとうよというさわぎか残った。

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